ビートルズの薬物事情:LSDが作ったアルバム『リボルバー』

ツアーは初めから期待はずれなものだった。それまでの3ヶ月間、メンバーはステージでは再現できないアルバム用の音楽を制作し続けていた。そこでツアーでは、作った曲とは大きくかけ離れた古い曲を演奏せざるを得なかった。さらに悪いことにフィリピンのマニラで、マネージャーのブライアン・エプスタインがファーストレディのイメルダ・マルコスからの招待を断ってしまった。バンドは大統領官邸でのガーデンパーティに招かれていた。これを聞いたフィリピン国民からのビートルズに対する批判の声が猛烈に高まったため、バンドはフィリピンからの脱出を余儀なくされた。ロンドンへ戻った後の記者会見でバンドのメンバーたちは、ひどく動揺しているように見えた。「アメリカを熱狂させる数週間後には俺たちは元気になっているさ」とハリスンは述べた。

このハリスンのコメントは、その後バンドに降りかかる出来事を悪い意味で言い当てている。数ヶ月前の1966年3月、バンドがアルバム『リボルバー』のレコーディングに入る直前、ロンドンのイブニング・スタンダード紙の記者モーリーン・クリーヴがメンバーの個別インタビュー記事を書いた。マッカートニーはこの機会を逃さなかった。「アメリカは、"肌の黒い人間はみんな汚らわしいニガーだ"と決めつける嫌な国さ。男はショートヘア、女はロングヘアでなければならない、というように偏った人生の原理原則でしつけられて育っている。僕たちがそんなつまらない慣習を破ってあげよう」と発言した。しかし、同じくクリーヴとのインタビューに答えたレノンの発言の方が、今なお語り継がれる有名なものとなった。「キリスト教は消え行く。衰退し、消滅するだろう。それについて議論の余地はない。そのうち俺のこの発言が正しかったとわかるだろう。今やビートルズはキリストよりも人気がある。ロックンロールとキリスト教のどっちが先になくなるかはわからないけどね。キリストは偉大だった。でもその弟子たちが頭のよくない凡人だった。俺に言わせれば彼らがキリスト教を歪め、堕落させたんだ。」

アメリカでのサマーツアー初日を2週間後に控えた1966年7月29日、クリーヴとのインタビューにおけるマッカートニーのアメリカ評とレノンのキリストに対するコメントが引用され、あるアメリカのティーン向け雑誌の表紙を飾った。マッカートニーの発言にはたいしたリアクションは起こらなかったが、レノンの発言は大騒動を巻き起こした。特に南部での反発は強く、複数のラジオ局がビートルズの曲を流すことをやめ、さらにビートルズのレコードを燃やすなどした。バンドは殺害予告まで受け取っている。8月12日にシカゴで行われた記者会見でレノンは、震えるような声で謝罪の言葉を口にした。「僕は神やキリストや宗教を否定しているわけではありません。キリスト教を批判しようとしたのではありません。また我々の方が(キリストより)偉大だとか優れているとか言おうとしたわけでもありません。僕は客観的な立場から見た存在として、"ビートルズ"という言葉を使ったのです」。後にレノンは語っている。「俺たちのレコードが燃やされていると聞いて、本当にショックだったよ。この世界に憎しみの火種を作ってしまった、と思わざるを得なかった。だから謝罪したんだ」。

この論争は間違いなくアルバム『リボルバー』の売上記録に影響した。『リボルバー』はアメリカでは8月8日にリリースされナンバー1を獲得したものの、レノンの発言に対する大論争の方が、彼らのニューアルバムよりも注目を集めた。ビートルズのアメリカ側のレーベルだったキャピトル・レコードもまた、『リボルバー』のアルバム全体としての音楽的な整合性を重視せず、オリジナル盤から『アイム・オンリー・スリーピング』、『アンド・ユア・バード・キャン・シング』、『ドクター・ロバート』をカットした。この3曲は、1966年6月中旬にリリースされたアルバム『イエスタデイ・アンド・トゥデイ(原題:Yesterday and Today)』に収録された。このような編集盤のリリースはアメリカ側では日常的に行われ、アルバムに含まれる曲や曲順がイギリス盤と大きく異なることがたびたびあった。ビートルズはキャピトル・レコードのこのような干渉に反発し、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(原題:Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band)』からは、大西洋を挟んだイギリスとアメリカで同じバージョンのアルバムがリリースされるようになった。

Translation by Smokva Tokyo

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