ブリティッシュ・インヴェイジョン:ビートルズから始まった英国ミュージシャンのアメリカ制覇

64年はビートルズの年だった。63年12月、ワシントンD.C.のラジオ局WWDCで『抱きしめたい』が初めて流れた瞬間から、この国は彼らに魅せられた。バンパー・ステッカー("ビートルズがやって来る!""リンゴを大統領に")、バッジ("ビートルズを応援しよう!")、ビートル・ウィッグ(モップ頭のカツラ)などのプロモーション・キャンペーンが先行し、ウォルター・クロンカイトのニュース放送や『ザ・ジャック・パー・ショー』で演奏がじらすようにお披露目され、2月7日、ビートルズがニューヨークのケネディ空港に降り立つと、空前絶後の大歓迎を受けた。使い古された話かもしれないが、ビートルズが空港で開いた記者会見で投げかけられた最初の質問のひとつ、「ファンの狂気(ルナシー)に賛成ですか?」に対し、ポール・マッカートニーは動揺することなくこう答えた。「ああ。健康的(ヘルシー)だよね」

2月9日、『エド・サリヴァン・ショー』に出演した際には、メディア史上最高の数値となる推定7000万人の視聴者をテレビに釘付けにした。『抱きしめたい』は7週連続でシングル・チャート1位となり、3月には、キャピトル・レコードからのアルバム『ミート・ザ・ビートルズ』が360万枚出荷され、史上最高のアルバム・セールスを記録した。数社のレコード会社が初期のビートルズの曲の版権を所有しており、それらも全米トップ40に登場し始めた。3月中旬、『キャント・バイ・ミー・ラヴ』が発売されると、ポップ・チャートは本当にビートルズの曲でごった返した。レコードが売れるたびに、記録が破られた。2週目で1位に急上昇した『キャント・バイ・ミー・ラヴ』で3曲連続シングル・チャートの1位を獲得し、エルヴィス・プレスリーのこれまでの記録を破った。4月の第1週、全米トップ100をビートルズの曲12曲が占め、そのうち『キャント・バイ・ミー・ラヴ』『ツイスト・アンド・シャウト』『シー・ラヴズ・ユー』『抱きしめたい』『プリーズ・プリーズ・ミー』の順で1位から5位までを独占した。

7月には、「ミュージカル映画の『市民ケーン』」とヴィレッジ・ヴォイス誌が評した初主演映画『ビートルズがやって来る/ヤァ!ヤァ!ヤァ!』が公開され、8月には初の全米ツアーをスタート、ビートルズの支配はさらに拡大した。ビートルズのキャラクター・グッズはランチボックスからビニール人形まで、ありとあらゆる商品が作られ、64年の小売業だけで推定5000万ドルを占めた。ビートルズはイギリスから輸出される主要な文化となり、彼らが切り開いた植民地への道は、すぐさま踏み固められた。


ザ・デイヴ・クラーク・ファイヴ GAB Archive/Redferns


大勢のライバル志願者たちが、アメリカ人に一泡吹かせるチャンスを大西洋の向こう側で虎視眈々と狙っていた。最初にビートルズの最大のライバルとなったバンドは、ロンドン北部のトッテナム出身のデイヴ・クラーク・ファイヴだった。ビートルズの2番手につけていたにもかかわらず、64年から67年までの間にDC5は17曲を全米トップ40に送り込んだ。―これは、その期間のローリング・ストーンズをはじめとしたどのバンドの記録よりも多い。60年代が幕を閉じる頃には、DC5は全世界で7000万枚のレコードを売り上げた。

64年1月、シングル『グラッド・オール・オーバー』が『抱きしめたい』を長きにわたる全英トップの座から引きずり下ろしたため、DC5はスーパースター・マッチレースでビートルズと互角だとしばらく思われていた。しかし、彼らは"前進"しなかった。ビートルズがしたように、ポップ・スターから詩人への脱皮を図るという意味では。シングル曲のバンドで、ダンスバンドで、それらの中ではトップクラス―それがデイヴ・クラーク・ファイヴだった。

Translation by Naoko Nozawa

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