2丁目劇場時代から変わらないFUJIWARAの不思議な「凸凹感」

かくして、2人ともNSCに入るが、プロ志向の藤本と、プロになることの意味すら分かっていない原西には相当の温度差があった。その温度差に敏感だったのは藤本。「こっちは真剣だったんで、原西に対しては“お笑いはそんなに甘いもんじゃないで”と思ってて。だからコイツとだけはコンビ組みたくないと思ってましたね。しかも、僕も原西も当時はすごく汚い格好してたんですよ。これからのお笑い芸人にはルックスも必要やと思っていたんで、原西と組んだら絶対に売れへんと思ったのもあって頑なに相方に誘うことはしなかったです」と。

だが、NSCにはネタ披露をする授業があり、周囲は誰かとコンビを組んで、ネタ合わせを始め出す。藤本もネタ披露の授業のためにお笑いの価値が合うヤツを探すも、なかなかコイツだ!という相方が見つからない。そうこうしているうちにネタ披露のタイミングが近づいてきたので、原西とは実家も近くネタ合わせもしやすいと思い、仕方なく声をかけコンビを組んだ。そしてネタを披露。これがウケた。

こうしてコンビが結成された。名前は2人の苗字から一文字ずつ取り“藤原”(当時の表記は漢字)。凸と凹が合わさった瞬間だ。時は1989年。ちなみに、この感動的な話を原西はこう振り返った。「NSCに入ったらコンビを組まないとアカン!という意識はなくて。きっと大勢で文化祭の演劇のオモロイ版みたいのをやるのかと思っていたほどなんで、何でコンビなんや?って思ってましたね」と。コンビは結成当初から圧倒的に凸凹だった。

そんな凸凹のまま、NSCを出た後に2人はプロの道を歩んで行く。だが、運命は確実に良い方に転がり出していたようで、デビューしてほどなく、ナインティナインや雨上がり決死隊などが所属していた若手ユニット「吉本印天然素材」に参加することになり東京に進出。1991年、同名のテレビ番組も始まり多くのファンを獲得し、同世代の中では一歩抜きん出た存在となった。

ところが、「吉本印天然素材」が93年に活動休止。そこから雲行きが怪しくなる。「吉本印天然素材」がなくなったFUJIWARAの2人は活動の場を大阪に戻すが、そのときの大阪は千原兄弟が2丁目劇場の人気を独占していて、FUJIWARAが活動する隙間はどこにもなく、仕事が一気になくなってしまう。必然的に、経済的にも精神的に追い込まれることになった2人だが……。

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