デヴィッド・ボウイ、69歳で逝去:約50年間人々を魅了し続けた人生

これまでに彼は『スペイス・オディティ』『チェンジス』『フェイム』『スペイス・オディティ』『レッツ・ダンス』『ホエア・アー・ウィー・ナウ?』を始め多くの作品をチャートに送り出してきた。その結果、音楽界に計り知れない影響を与えた。これまでジョーン・ジェット、デュラン・デュラン、スマッシング・パンプキンズ、マリリン・マンソン、アーケイド・ファイア、オアシス、オジー・オズボーン、モリッシー、ベック、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、バウハウス、レディ・ガガ、ナイン・インチ・ネイルズを始め、多くのアーティストたちが彼の曲をカバーしてきた。
ボウイの息子のダンカン・ジョーンズは1月11日(月)の早朝、自分と父の写真をツイートし、こう記した。「これが本当だと書くことはとても残念で悲しいことだ」。ボウイとしばしばコラボレートしたブライアン・イーノはこうツイートした。「言葉では言い表せない」。
カニエ・ウェストは「デヴィッド・ボウイは僕にとって最も大切なインスピレーションの源の一つであり、恐れを知らない極めてクリエイティブな人だった。彼は生涯にわたって僕たちに魔法を与え続けた」とツイートした。「彼の友、そして家族のために祈りたい」
彼は親しい友達にすら、ガンの宣告を受けたことを明かさなかった。しかしオフブロードウェイで上演、ボウイが関わった舞台『Lazarus/ラザロ』を監督した演出家のイヴォ・ヴァン・ホーヴェは初期の段階で彼が肝臓ガンと闘っていること、そのためすべてのリハーサルに立ち会うことができないことを聞かされていたと語る。「ボウイは死の床にあっても書き続けていたとも言える」とヴァン・ホーヴェはオランダのラジオ局ラジオ4に語ったとニュースサイト「ダッチニュース.nl」が報じている。「私が目にしたのは戦っている人間だった。彼はライオンのように闘い、その闘いの間もライオンのように働き続けた。私はそのことを深く尊敬している」

デヴィッド・ボウイは1947年1月8日、労働者階級の息子としてロンドン郊外で生まれた。彼の父ヘイウッド・ジョーンズは子どもに対する慈善活動の助成の仕事をし、母マーガレット・メアリー・ジョーンズはウェイトレスだった。彼は13歳のときにサクソフォンを習い始め、高校のときにプロのアーティストとしての道を歩む準備を始めた。20歳の頃にはスコットランドにある仏教の僧院で過ごし、劇団にも参加している。

音楽に専念するようになると彼は“キング・ビーズ”“ザ・マニッシュ・ボーイズ”(ジミー・ペイジとレコーディングしたこともある)、“デイヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウワー・サード”などの名前でグループを結成し演奏するようになった。彼はモンキーズのシンガー、デイヴィー・ジョーンズと混同されるのを防ぐため自らをボウイ(これはボウイ・ナイフに由来する)と命名した。彼は1967年にセルフタイトルのフォークアルバムをリリースしたがイギリスのチャートでは奮わず、アメリカではまったくだめだった。しかしそれは次の作品で一変することになる。

Translaion by Yoko Nagasaka

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