マドンナ ミュージックビデオベスト20:監督が明かす制作秘話

6『レイン』(1993)

マーク・ロマネクがレニー・クラヴィッツやアン・ヴォーグのために製作したクリップはボリュームがあり、非常にエネルギーに満ちた作品だった。これがマドンナの注意を引いた。マドンナはアルバム『エロティカ』に収録されているこのみずみずしい楽曲のビデオを監督してくれないかとロマネクに依頼した。
「私は実際、彼女の申し出を断ったんだ。この楽曲はとてもロマンティックで、あのころはロマンティックなものに対してどう対応していいのか本当にわからなかったから」とロマネクはDVD『Director’s Label』の中で語っている。結局彼はこの作品を引き受け、マドンナを未来にワープさせることで変化をもたらそうと決めた。「すべてが過去を見ていた。だから僕は言った「マドンナで何か未来的なことをやってみると面白いかもしれない」って。彼女は反射的にこう言った。「でもこの作品は『嵐が丘』のようなものよ、白黒でロマンティックでなくては」って。だから僕はこう言った。「それはちょっと正統派すぎるね」って。結果、完成したクリップの中で、マドンナは大きなヘッドフォンをし、メイクアップアーティストにかしずかれている。コントラストが強い映像とメタナラティブなコンセプトのせいで、どことなくぞっとする雰囲気だ。クリップの中に登場するクリップの監督を選ぶのは多少困難を伴った。「僕は最初、ジャン・リュック・ゴダードが使いたかった。マドンナのような人と仕事をしているときにはそれもあり得るんだ」とロマネクは振りかえる。彼女はこのフランスのヌーヴェルバーグの先駆者、そしてイタリアの映画監督のフェデリコ・フェリーニにも連絡を取った。しかし2人とも断ってきた。日本人の作曲家、坂本龍一が承諾した。坂本がロマネクのいうところの「最も象徴的で有名で魅力的な日本のアイコン」だったおかげである。

5『ライク・ア・プレイヤー』(1989)

「『ライク・ア・プレイヤー』は」とマドンナはゴスペルの影響を受けたこの楽曲のビデオが公開された直後、新聞『ニューヨークタイムズ』紙に語った。「若くて情熱的な女の子の歌よ。彼女はほとんど神が生涯の男性であるかのように神に熱烈に恋をしているの」。しかしメアリー・ランバートが監督したクリップには燃える十字架や聖痕、肉体を手に入れるだけでなくその喜びに屈服する聖者の偶像など、過激なイメージが登場したおかげでこの楽曲はそれ以上のもの—ポップカルチャーにおける宗教の役割、人種差別、論争に直面したときの大企業の対応の仕方などに関わることになった。(「聖痕をねたにするのはとても危険な領域に入り込むことだと思う」とローリングストーン誌の当時の音楽エディターのデヴィッド・ワイルドはロイターにこうコメントした。)このクリップは公開されると大きな混乱を引き起こした。他の映像も多く使用していたにも関わらず、ペプシはこの楽曲を使った広告キャンペーンから500万ドルの予算を引き上げた。 しかしマドンナは屈しなかった。「アートは論争を引き起こすべきもの。そのためにあるようなものよ」。1989年にキリスト教原理主義の団体が抗議し、イタリアのテレビ局がこのクリップを放送禁止にしたときマドンナは雑誌『タイム』誌にこう語った。この哲学は初期に製作した『マテリアル・ガール』に生命を吹き込んだ。しかし『ライク・ア・プレイヤー』のクリップを描いた手法は、その活気にあふれた楽曲に率直で、攻撃の矢面に立つような彼女の世界観を染み込ませた。それがMTVの初期の10年において最も象徴的なビデオのうちの一本を生み出したのである。

監督 メアリー・ランバート: 
私は自分たちが何か大きなスイッチを押していることがわかっていた。でも私はその影響やキリスト教原理主義的な宗教の反感、この国、そして世界における人種差別を過少評価していた。私はいつもこう考えているの。もし私の仕事がうまくいったなら、それは私の意図を超えるって。そしてこの作品はまさにその通りになった。一番重要だったことは人々に、彼らが視覚的に参考にしているもの、彼らの偏見が本当に根ざしているものについて改めて考えさせることだった。燃える十字架を使ったことは宗教における人種差別を示していた。なぜ黒人のキリストではないのか? 彼にキスすることをなぜ想像できないのか? 私はエクスタシーについて意見を言いたかった。そして性的なエクスタシーと宗教的なエクスタシーとの関連性を示したかった。多くの人が無意識にこの関係性を理解していると思う。そしてそれに魅了されたり、憤慨したりしている。多くの観客が意識的にこれを解釈しているとは私は思っていない。

4『テイク・ア・バウ』(1994)

マイケル・ハウスマンがこのラブストーリーをスペインで撮影したことを思い出そう。「マドンナはこう言った。「OK、これが曲よ。これは有名人に恋をした女の子の話なの。何かを表現して。でもただの暗いものにはしないで」とね。もちろん僕はそれを聞いて、極めて暗い作品を作った」。マドンナはパリのリッツホテルでハウスマンに会った。2人はテーブルにつき、ディナーまで監督の暗いアイデアについて議論を重ね、その後ちょっとした雑談を始めた。「彼女はこう言った。「あなたはこれまでどんな作品を作ってきたの?」だからこう答えた。「闘牛みたいなものを撮るのが好きだった」って。そのときに彼女の目が光るのがわかった。そして僕は突然その路線でいこうと思ったんだ。その夜のうちにすべてを書き上げたのは確かだよ」。この官能的で壮大なクリップのために、セピアがかったビデオの映像では本物の闘牛士のエミリオ・ムニョスとマドンナのショットをミックスさせている。そしてテレビの前で身をよじるマドンナのエロティックな映像がフィーチャーされている。「監督するのは難しいと考えていた。でも僕がこれまで見た中で最もセクシーな作品の一つになった」とハウスマンは語る。「彼女はただ楽曲を演じていて、ゴールに向かって進んでいた」。

監督 マイケル・ハウスマン: 
この作品の主題は非常にタブーとされているものだったから、このビデオを作ることを試み、実際に製作することは非常に大きな作業になった。監督を降板することも何度か考えた。PETAが関わってきたからだ。彼らが「闘牛を撮影すると聞きましたが?」と言ってきたんだ。

もともとはそうするつもりだった。闘牛で牛が殺されるところまですべてを撮影したいと考えていた。そしてそれに忠実でありつづけるというアイデアだった。でもそれは明らかに、マドンナのビデオのために闘牛を開催することはできないし、その逆もできない。そして思った通り、郵便物を開けるのにロンドンの僕のオフィスに警官を呼ばなくてはならなくなるだろうという、危険な問題になった。たくさんの動物保護団体が科学者たちに爆弾で郵便を送っていたんだ。プロデューサーはドアのところにバラをテープで止められた。そこには「また会おう、ベイビー」とスペイン語で書いてあったんだ。本当に怖かったよ。スペインではホテルにチェックインするのに違う名前を使わなくてはならなかった。それまでそんなことをしたことはなかった。

闘牛の世界は、彼らを商業的に利用するために入ってくる人と何かしたいとは考えていなかった。僕が闘牛に対して強い情熱を持っていたことが助けになった。こう言うだけで十分だということがわかっていた。「聞いてくれ。僕はエミリオを撮影したい。彼が昨年出たすべての試合について語ることができる。彼が着ていたものについても、闘った場所についても」と。みんなから「エミリオは絶対にそういうことはしないだろう。みんなの前に出たいと思っている他の闘牛士を見てみたらどうだい?」と言われるのは一種おかしなことではあった。そういう人は求めていないんだ! だからその旅の間じゅう、文字通りセビリアのホテルの部屋で座ってエミリオを待って過ごしていた。4日間待った。そしてその後、彼の周りの人たちだけが来て、この話が本当なのか、人々にいたずらを仕掛けるテレビ番組ではないことを詳しく調べていったんだ。

彼らに約束しなくてはいけなかったことの一つは、僕たちはどんな方法でも闘牛を絶対に傷つけるつもりはないことだった。これはとても扱うのが難しい問題になった。闘牛士はある程度牛を傷つけなくては、本当には闘うことができないから。普通、彼らは牛の肩を刺して傷つける。すると牛は頭を下げる。だから闘牛士はムレタと呼ばれる小さい赤い布を使うことができる。もし突然、牛の肩を刺せなくなり、牛の血の痕跡もなくなったら、どうやってこの赤い布を使うのか? マドンナは2日以内にスペインにやってくる予定だった。そしてエミリオは翌日来る予定だった。期限が近ついてきていた。だから僕は彼に問題を打ち明けた。彼はただこう言った。「OK、考えさせてくれ」。彼はその後2日間くらい姿を見せなかった。電話でも彼を捕まえられる人はいなかった。マドンナは飛行機に乗り込んでいた。これは素晴らしいドラマだった。エミリオはとうとうついにやってきて、スペインの報道陣にこう言った。「僕はこの牛と闘う。僕は彼を刺すこともしないし、ムレタも振らない。これは初めてだが僕はやることにした。友達のマイケルのために」。

僕は闘牛の世界がこれを本当に表に出したがっていたとは思わない。彼は傷を負っていない闘牛と闘えたし、それは美しかったから。そして牛は絶対に傷一つ負わなかった。でも闘牛というものが絶対そうはならない理由を理解しなくてはいけない。不幸なことに闘牛は牛を殺す祝祭だからだ。だからそうすることは闘牛がスペイン人のために存在している理由を奪うことになる。そしてこの映像を見ると、彼のやっていることは非常に傑出したことだとわかる。彼はただ牛と闘っているわけではない。美しく闘っているんだ。本当に美しい。すべてが秘密のベールに包まれているんだ。誰も見ていなくては、彼はこれをやらない。刺されてもいない、布を振られてもいない牛と闘うことは闘牛士にとって非常に奇妙なことなんだ。

Translation by Yoko Nagasaka

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