唯一無二の"プリンス"として生き抜いた57年間とは

プリンス(Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)


プリンスこと、プリンス・ロジャーズ・ネルソンは1958年6月7日にミネアポリスで生まれた。父親のジョン・ネルソンは同都市で活動していたジャズバンドのリーダーであり、母親のマティーは同バンドのシンガーだった。彼女は以前こう語っている。「私ができなかったことをすべて叶えて欲しいという願いを込めて、彼をプリンスと名付けたの」プリンスは7歳の時に独学でピアノを弾き始め、13歳でドラム、14歳でギターを始めたという。

14歳の頃、彼は後にシャンパンと改名することになるバンド、グランド・セントラルに加入する。18歳の頃にプロデューサーのクリス・ムーンと共に制作したデモテープがオーウェン・ハスニーの手に渡ったことをきっかけに、プリンスは1978年にワーナー・ブラザース・レコードと契約する。20歳の新人に作品の内容に関する全権限が与えられたことは、当時の音楽業界においても極めて異例だった。

同年、デビューアルバム『フォー・ユー』に収録された「ソフト・アンド・ウェット」は、プリンスにとって初のヒットシングルとなった。エロティックなタイトルも話題となった同曲はトップ100で第92位、R&Bチャートでは第12位を記録した。「君をイカせられる唯一の男になりたいんだ」という、さらに過激さを増した歌詞が議論を呼んだ1979年発表のシングル「ウォナ・ビー・ユア・ラヴァー」は、プリンスの名前を世界中に知らしめた。セカンドアルバム『愛のペガサス』からシングルカットされた同曲はトップ100で第11位、R&Bチャートでは堂々の第1位に輝いた。また同アルバムに収録された「つれない仕打ち」「セクシー・ダンサー」もヒットを記録し、その人気に拍車をかけた。



『愛のペガサス』のリリースツアーに際し、彼はスライ・アンド・ザ・ファミリーストーンのメンバーを含む、人種と性別の垣根を越えたバンドを結成する。同ツアーにおいては、ビキニ姿の彼がステージ上でエクササイズをする演出も話題となった。『愛のペガサス』は1980年にプラチナ・ディスクに認定されている。

前作のセールス面での成功に満足することなく、プリンスは1980年作『ダーティー・マインド』と1981年作『戦慄の貴公子』で、より過激な性的表現を追求する。前者に収録された「アップタウン」「ダーティー・マインド」「ヘッド」はヒットを記録し、近親相姦を肯定する内容の「シスター」は大きな議論を呼んだ。また同作収録の「君を忘れない」は、後にシンディ・ローパーとミッチ・ライダーによってカバーされている。『戦慄の貴公子』はトップ10入りこそ逃したものの、「俺は黒人か白人か、ストレートなのかゲイなのか」という自身に対する世間のイメージを歌った表題曲、そして「レッツ・ワーク」がヒットを記録した。


プリンスがスーパースターとしての地位を確固たるものにしたのは1982年発表の5作目、『1999』だった。自身を性の奴隷として描いた「リトル・レッド・コルヴェット」、バンドのメンバーと交互にマイクを握る「1999」、軽妙な「ディリリアス」や「夜のプリテンダー」といったジャンルの壁を越えたシングル曲のヒットに後押しされ、アルバムは初登場第9位を記録した。当時MTVは特定の音楽のオンエアに消極的な姿勢を取っていたが、「リトル・レッド・コルヴェット」のビデオはそういった状況を覆し、プリンスは国民的スターとしての地位を確立してみせた。同アルバムのセールスは1999年に400万枚に到達した。



当時の彼の創作意欲はとどまるところを知らず、同郷のバンドのザ・タイム、そして女性3人組のヴァニティ6の2組に、ジェイミー・スターという名義で楽曲を提供している。ザ・タイムによるR&B調の「クール」と「777-9311」を、後年プリンスは自身のコンサートでも披露している。ヴァニティ6のフロントウーマンを務めたのは、プリンスの当時のガールフレンドでもあったデニース・マシューズだった。当初プリンスは彼女のステージネームをヴァギナにすると提案したが、彼女が拒否したことでヴァニティに落ち着いたと言われている。後年プリンスは、同グループによる「ナスティ・ガール」もライブで披露している。ヴァニティとの破局後、プリンスはアポロニア・コテロを新たなフロントウーマンとして迎え入れ、グループ名をアポロニア6に改名する。プリンスと決別したヴァニティは、後年アーティストとして再スタートを切るが、今年他界した。

Translation by Masaaki Yoshida

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