プリンスの長年のパートナーが語る『パープル・レイン』をめぐる狂騒、ワーナーとの確執

―1985年頃、プリンスはツアーに出ることをやめ、次作からはミュージックビデオも制作しないと公言しました。あなた方は彼が本気だと思っていましたか?

最初はただの気まぐれだろうと思っていた。というのも、私は彼が毎日のようにスタジオで曲を作っていることを知っていたし、それがいずれアルバムとしてリリースされると確信していた。
それに、彼はステージで新曲を演奏することに何よりも喜びを覚えていた。私がやめろと言っても、彼は決して耳を貸そうとしなかった。当時私は彼の発言をあまり深刻に受け止めていなかったが、実際のところ彼は『パープル・レイン』によってもたらされた途方もない名声にうんざりしていたんだ。何万人もの前で演奏することにもね。8、9ヶ月もノンストップで演奏し続けて、消耗してしまっていたのかもしれない。『パープル・レイン』のツアーはすべてが緻密に計画されていたために、毎晩何かしらのアレンジを加えるということができなかったんだ。映画のストーリーと連動している以上、セットリストを変えることはできないし、結果的にライティングやプロダクションもすべて固定せざるを得なかった。期待どおりの内容にファンは熱狂したが、アドリブやアレンジが許されないショーの連続は、プリンスにとっては苦痛だったんだ。

その解決策として彼が思いついたのは、アンコールで好きな曲を好きなだけ演奏することだった。必然的にショーの時間が長くなり、会場使用費は膨れ上がった。ツアー日程の半分を終えた時点で、そのコストは既に何千万ドルにも達した。毎晩0時30まで演奏していたんだから当然さ。とにかく、そんな彼がステージに立つことをやめるなんて私は信じなかった。ファンの前で演奏する喜びを、彼がそう簡単に諦めるはずはなかったからね。

―いま振り返ってみても、『ダーリン・ニッキー』に対するティッパー・ゴアの主張のような、彼のセクシャルな内容の歌詞に対する世間の過剰な反応は馬鹿げていたと思います。

同感だ。彼の歌詞はカルチャーが大きく変貌しつつあった当時のムードを風刺していたんだ。アル・ゴアの妻だったティッパー・ゴアのような、どちらかというとリベラルな人物があんな風に反応したことが、時代がいかに大きく変わろうとしていたかを物語っていると思う。プリンスの影響力を考えれば、彼はそのムーヴメントの一端を担っていたと言っていいだろうね。メディアの前では常に動じないふりをしていたが、実際にはそういう馬鹿げた主張にうんざりしていたと思うよ。

Translation by Masaaki Yoshida

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