モハメド・アリ、戦い続けた人生

Photo by Brian Bahr/Getty Images


クレイは有言実行し、動きの鈍いリストンの回りを舞い、キャリアで初めてリストンの顔面をカットさせた。リストンが7ラウンド開始のゴングが鳴っても立ち上がれなかったことから、6ラウンド終了時点でのクレイのテクニカル・ノックアウト勝ちが宣告された。試合後のインタヴューで熱狂の新王者は「我こそはグレーテストなり」と叫んだ。「オレほど強い人間はこれまでに存在しなかった。オレの顔にはかすり傷1つない。オレはソニー・リストンを相手に番狂わせを演じた。オレはまだ22歳になったばかりだ。オレこそが史上最も偉大でなければおかしい」。クレイは現役のヘヴィー級王者からタイトルを奪取した最若年ファイターとなった。1986年に当時20歳のマイク・タイソンが記録を更新するまで、これはボクシング・レコードであった。

タイトル獲得してまもなく、クレイはネイション・オブ・イスラムのメンバーになり、この一派のリーダー、イライジャ・モハメド直々の命名で、モハメド・アリに改名した。クレイは1961年から、ネイション・オブ・イスラムの集会に参加しており、マルコムXに啓蒙(けいもう)を受けていたが、こうしたつながりはリストン戦直前まで伏せられていた。アリが改名したわずか数週間後、マルコムは教団を離脱、これに伴いアリはマルコムとの友情に終止符を打った。アリは後年、このことを人生最大の後悔としてあげている。

白人のスポーツ解説者はアリの改宗と改名を嘲笑し、アリのことを引き続きカシアス・クレイと呼び続けた。ただ、ABCのハワード・コゼルは例外だった(コゼルは後にアリがベトナム戦争徴兵拒否をした際にもアリを支援した)。歯切れの良い声でおなじみのコゼルとアリは親しい関係を築き、コゼルは60年代終盤から70年代にかけてのアリのほとんどの主要試合で実況を担当することとなる。

モハメド・アリは1965年5月にソニー・リストンとの再戦に臨んだ。しかし試合開始後2分もたたない段階で、レフリー(元ヘヴィー級チャンピオンのジャージー・ジョー・ウォルコットが務めていた)はアリの勝利を宣告した。リストンは第1ラウンドにダウンを喫したのだが、記者にはアリのパンチがヒットしたところが見えず、リストンは"ファントム・パンチ"(幻のパンチ)に倒れたと懐疑的に報じた。

アリは11月にフロイド・パターソンを下してタイトルを防衛、次いで1966年3月にアーニー・テレル戦が組まれた。ところがこの試合の1か月前、ルイヴィル徴兵委員会はアリを1-A(適格)に再分類した。これを受けてアリは、軍隊に入ることを拒否すると発表、「オレはベトコンに恨みも何もないし、ベトコンはオレのことをニガーと呼んだこともない」と発言した。アリに対する非難の声が渦巻き、試合は延期に。カナダやヨーロッパでの数試合を挟んで、アリはついに1967年2月にテレルと対戦することとなった。この1戦は大荒れとなり、試合前にテレルがアリのことを"クレイ"と呼んだことからアリが激怒、フラフラのテレルにあえてとどめを刺さず、なぶり殺すようなパンチの合間に「オレの名前は何だって? このアンクル・トム野郎。オレの名前を言ってみろ」と嘲り続けたのだった。
(訳注:アンクル・トムとは、黒人による、白人に迎合的な黒人に対する侮蔑呼称)

Translation by Kuniaki Takahashi

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