幻の未発表アルバム15選

ボブ・ディラン&ジョニー・キャッシュ『The Dylan/Cash Sessions(ザ・ディラン/キャッシュ・セッションズ)』(1969年)

ボブ・ディランとジョニー・キャッシュは、コラボレーションの機会を一度も得ずに、同じ音楽の世界で10年の月日の大半を共に過ごした後、ようやくスタジオ入りを実現させた。最初に行動を起こしたのは、マン・イン・ブラックの愛称で知られるジョニー・キャッシュで、62年に若き吟遊詩人ボブ・ディランが音楽界に現れた直後にファンレターを送ったという。その2年後のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ジョニー・キャッシュはボブ・ディランへ尊敬の証として自らのギターをプレゼントしている。

69年2月、ボブ・ディランはジョニー・キャッシュの故郷で、カントリー・ミュージックに傾倒した9枚目のアルバム『ナッシュヴィル・スカイライン』をレコーディングしていた。この時に偶然にも隣のスタジオにいたジョニー・キャッシュをボブ・ディランが訪ねたことで、2月17日と18日にセッションが実現し、二人はデュエット曲12曲以上をレコーディングした。その中から、アルバム『フリーホイーリン・ボブディラン』の再収録曲となる『北国の少女』が唯一、『ナッシュヴィル・スカイライン』に収録された。残りの曲はというと、海賊版として世に出回るまで謎に包まれていた。

同コレクションは、二人の大物ミュージシャンがそれぞれのレガシーを再検討するという興味深い内容で、ボブ・ディランの『いつもの朝に』、ジョニー・キャッシュのヒット曲『アイ・ウォーク・ザ・ライン』『リング・オブ・ファイア』『ビッグ・リヴァー』が再収録されている。また、サン・レコード初期の曲『ザッツ・オール・ライト』や『マッチボックス』も、カール・パーキンスのギターのサウンドと共に、長い歳月を経て再び蘇っている。

ジェフ・ベック『The Motown Album(ザ・モータウン・アルバム)』(1970年)

(Photo by David Redfern/Redferns)
デトロイトの神聖なヒッツヴィルUSAでレコーディングを行った数少ない英ロック・アーティスト、ジェフ・ベック。彼は2010年にローリングストーン誌のデヴィッド・フリッケに、「あそこで行われた最後の何回かのセッションだったんだ」と話している。「俺たちは観光客とか、キャンディー・ショップのガキみたいだった」

ジェフ・ベックのギターとモータウンのスタジオ・バンド、ファンク・ブラザーズのコラボは、素晴らしいアイデアに聞こえる。しかし、ジェフ・ベックがバンドのドラマー、コージー・パウエルを連れて行ったことで、不穏なスタートを切ったという。「ドラマーをモータウンに連れて行くとか、俺は何を考えてたんだ?」。彼は後にこう振り返っている。「彼らは即行、俺たちのことを嫌ってね。関わりたくなかったみたい」

最終的に、ファンクとロックのコラボが具体化することはなかった。「俺は、モータウンの雰囲気に一味加えたバンドを作りたかったんだ。でも、モータウンではロックからどんどん遠ざかってしまった。彼らはそれを理解できなかったのさ」。セッション費がかさみ、敗北に終わったジェフ・ベック一行はイギリスへと帰国した。「完璧に逃したチャンスだった。最悪なカタログだったんだ」

ジェフ・ベックは10曲ほどレコーディングし、そのうちの数曲はモータウンの数々のヒット曲を世に送り出したソングライター・グループ、ホーランド=ドジャー=ホーランドが作曲したことを明らかにしている。その中に幻の大ヒット曲は存在するのか?まさにその答えは、ジェフ・ベックのみぞ知っている。「カセットテープ1本にコピーしてる。存在するのはその1本だけなんだ」

ジェフ・ベックは72年に、スティーヴィー・ワンダーのアルバム『トーキング・ブック』のゲストアーティストとして、モータウンの敷地に再び足を踏み入れている。そこで2人がテークの間にジャムした音源が、後の『迷信』の基礎となった。

ジミ・ヘンドリックス『Black Gold(ブラック・ゴールド)』(1970年)

70年初頭、ジミ・ヘンドリックスは伝統的なロックンロールの枠を超えた曲作りに励んでいた。「一かけらって言うものさ」。彼はこうローリングストーン誌に表現している。「楽章みたいな。そういうのを書いているんだ」。ある日、彼はマーティン社のアコースティック・ギターを手に取り、16曲の曲集をカセットテープ数本に録音した。そしてラベルに『ブラック・ゴールド』と書いたテープを、スタジオ・セッション用にドラムのパート考えてもらおうとミッチ・ミッチェルに渡した。しかしジミ・ヘンドリックスは、そのスタジオ・セッションの実現を待たずして、この世を去ってしまった。テープはミッチの手に渡ったまま、20年もの間忘れ去られた。

その20年間、盗まれ永遠に失われたものだと考えられていたテープの収録曲について、果てしない推測が飛び交った。もちろん、テープが存在すると仮定しての推測だ。ジミ・ヘンドリックスが、『ブラック・ゴールド』についてマスコミに口を開くことはめったになく、あったとしても遠まわしに音楽制作の方向性について語るだけだった。「大体が馬鹿げたもの」と彼は話していた。「面白い男を作り上げるんだ。彼が奇妙な場所に行くわけ。俺はそれを音楽にできると思ってる」

『ブラック・ゴールド』の謎のいくつかは、92年にミッチ・ミッチェルが英国の自宅でこのカセットテープを再発見した時に明らかになった。スタジオで完成した6曲は、ジミ・ヘンドリックスの死後に発表されたアルバムに収録されたが、残りの9曲はカセットテープに残ったままだ。何年も続いた法廷争いの後、ジミ・ヘンドリックスの遺産管理人は、『ブラック・ゴールド』を「10年の間」にリリースすることを約束している。2016年6月現在までに発表されたのは、アルバムのオープニング曲『サドンリー・ノヴェンバー・モーニング』のみとなっている。

ジーン・シモンズ&ポール・スタンレー『Wicked Lester (ウィキッド・レスター)』(1972年

ジーン・クラインとスタンレー・アイゼンは、それぞれキッスのジーン・シモンズ、ポール・スタンレーとしてメイクを施す前に、ウィキッド・レスターのメンバーとして活動していた。たった数回のステージ経験しかないウィキッド・レスターに対して、エピック・レコードがデビュー・アルバムの資金支援に名乗りを上げると、彼らは半年間に及ぶずさんなレコーディング・スケジュールの中、ポップ曲のカヴァーとオリジナル曲をレコーディングした。

歴史に残るセッションでこそあったが、収録された曲は音楽スタイルの方向性が定まらないもので、それらを一枚のアルバムに収めるには無理があった。11曲収録されたアルバムは、エピック・レコードに即座に却下されたが、その決定に対してジーンまでもが、最もな判断だと賛成している。「『ウィキッド・レスター』は、面白い曲が集まったものかもしれないけど、テーマとかアイデンティティとかが抜けてるんだ」。ジーンはこう振り返っている。

新規巻き返しを図ろうとした二人は、ピーター・クリスとエース・フレーリーと共にバンドを結成した。そのバンドこそ、後に2人を有名にしたバンドだ。ウィキッド・レスターのテープはというと、76年にエピック・レコードがキッスの世界的な人気に付け込む機会を見つけるまでの間、眠った状態だった。ポップなサウンドで恥をかくこと、ファンを混乱させることを恐れたバンドは、13万7500米ドルでテープを買い戻し、それが世に出回ることを阻止した。

ウィキッド・レスター時代の曲である『彼女』と『すべての愛を』を再収録したものは、キッスの75年のアルバム『地獄への接吻』に、また『キープ・ミー・ウェイティング』は2001年の『KISS BOX~地獄のシガー・ボックス』に収録されている。その他の曲は、未だ謎に包まれたままとなっている。

Translation by Miori Aien

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