イン・シンクとバックストリート・ボーイズ誕生秘話:詐欺師と言われた生みの親の策略とは

バックストリート・ボーイズがそうだったように、イン・シンクもまずヨーロッパでデビューしている。1996年にシングルをリリースし始め、またたく間にヨーロッパ全土で人気を博してメガスターとなった。しかし、彼らがアメリカで公式のデビュー・アルバムをリリースしたのは1998年の3月である。すなわち、セルフタイトルのこのアルバムがアメリカ国内でリリースされたのは、同作をヨーロッパでリリースしてから丸々1年後だった。さらに収録曲もアメリカ向けに調整され、ボストンの「宇宙の彼方へ」(原題:More Than a Feeling)のアカペラ・カバーは外されていた。しかし、彼らの楽曲を手がけるスウェーデン人ソングライターとプロデューサーがタッグを組んで作ったユーロダンス・サウンドが押し寄せる会心の1枚だった。



1998年のイン・シンクのデビュー・アルバムのリリースに先立って、バックストリート・ボーイズはスターダムへの道を歩き始めていた。1999年の『ミレニアム』で不動の人気が決定付けられる前哨戦のように、1998年1月にはデビュー・アルバム『バックストリート・ボーイズ』(1996年リリース)がチャートの4位まで上昇していた。しかし、彼らの快進撃によって、ボーイズ・グループ市場は新たな人気グループが参入する隙間をも作り始めていたのである。そんなタイミングでイン・シンクがデビューし、同年10月には彼らのデビュー・アルバムがチャートの2位となった。この勢いを生んだきっかけの一つが、7月にMTVで放送されたコンサート・スペシャルで、「アイ・ウォント・ユー・バック」や「(God Must Have Spent) a Little More Time on You(原題)」などのシングルがチャートを一気に駆け上がったのである。

「究極の目標は一度ではなく二度やることだった」と1998年にライトが言っている。「この国ではイン・シンクで3位になったが、これはもう経験済みだと思う。それが問題を引き起こしたことは明らかだ」と。

1998年の秋、バックストリート・ボーイズは最終的にライトのバックストリート・マネージメント社と決別する。そして、その後の数年間、両グループともパールマンとの訴訟という泥沼に引きずり込まれた。彼らは、虚偽の陳述とメンバーの収入を不当に搾取した詐欺行為で、パールマンを訴えたのである。どんな人気アーティストでもあっても、このような訴訟を起こすと、活動に陰りが見えるようになるのだが、両グループとも2000年には絶大な人気を誇るポップ・グループとして文字通り世界に君臨したのだった。

2組のボーイズ・グループが協力して、パールマンに盗まれた金銭を取り戻す戦いを続ける傍らで、熱狂的なファンたちは両グループの競争状態に油を注ぎ続けた。偶然か意図的かは定かではないが、パールマンは新ミレニアムのビートルズvsストーンズの新ミレニアム版を再現し、両グループは相手に勝ったり負けたりしながら、スーパーグループへと成長していったのである。

「イン・シンク自体じゃなくて、イン・シンクがどこに由来するかってことが僕に刺さる、刺さる、刺さるんだ。そして、今までもそれが気になる」と、リチャードソンが2000年にローリングストーン誌に語った。そして、例のドキュメンタリーで見せたのと同じ感情をあらわにしながら続けた。「僕は父をガンで亡くした。だからルーを父親のように思っていた。でも、当時の僕は世間知らずだったし、ルーは嘘つきだった。将来、僕たち全員のキャリアをスタートさせてくれた恩人として彼を思い出すことになるとは思うけど、僕たちを騙して、影で密かに他のグループを作っていたことも忘れないだろうね」と。

Translated by Miki Nakayama

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE