ジミ・ヘンドリックスの伝説的スタジオ「レコード・プラント」誕生秘話

「ケルグレンが作ったのはスタジオじゃない。あれはヘンドリックスの生活空間だった」ー レコード・プラント共同設立者 クリス・ストーン

当時ニューヨークでは、マルチレコーディングに対応したスタジオは多くなかった。そこでケルグレンはヘンドリックスに、当時主流だった実験室のようなものではなく、自宅のリビングのようなデザインのレコーディングスタジオを作ることを提案した。ヘンドリックスもありふれたスタジオには興味がなく、彼がジム・モリソンやエリック・クラプトンと夜遅くまでジャムセッションをしたウエスト46thストリートのナイトクラブ、ザ・シーンのようなスペースを欲していた。

ヘンドリックスの理想のスタジオを作るために、ケルグレンは10万ドルを必要とした。彼が偶然知り合ったレブロン社の販売主任だったストーンは、ミュージカル『ヘアー』の投資者でもあったウエストチェスターの資産家、アンキー・レブソンに出資させることを同意させた。この契約を機に、ケルグレンとストーンは以降10年間続くパートナーシップをスタートさせる。またヘンドリックスを紹介したトム・ウィルソンも、そのスタジオを使用する権利が与えられた。

ストーンはこう話している。「ケルグレンが作ったのはスタジオじゃない。あれはヘンドリックスの生活空間だった」

アンディー・ウォーホルのザ・ファクトリー(ケルグレンはそこでルー・リードとパーティに興じたという)にインスパイアされた初代レコード・プラントは、ザ・シーンのすぐ近く、321ウエスト44thストリートにあった廃ガレージ内に作られた。その空間の異質ぶりは一目瞭然だったという。「色鮮やかに染められた吸音材が、壁という壁を埋め尽くしていた」同スタジオでレコーディングされたドン・マクリーンの『アメリカン・パイ』のプロデューサー、エド・フリーマンはそう振り返る。「そこら中にドラッグが散らばってて、俺も片っ端から試してた。とにかくヒップな空間だった。当時の言葉で言うとグルーヴィさ」

当時レコード・プラントでエンジニアとして働いていた若き日のトッド・ラングレンは、スタジオの空き時間を見つけては、自身のデビューアルバム『ラント』の制作を進めていた。「カスタムスピーカーやカスタムコンソール、何もかもがピカピカの新品だった。誰もがあの空間の虜になってたよ」

同スタジオの最大の魅力は設備面だった。当時発売されたばかりだったスカリーの12トラックテープマシンは、ヘンドリックスの好奇心とクリエイティビティを掻き立てた。スタジオの中核を担ったカスタムコンソールは、彼をミキシングに没頭させた。

1968年3月19日、レコード・プラントのオープニングパーティが開催されたその日、ヘンドリックスはツアー中で不在だった。ジョージ・ハリスンの出席が噂されていたが、足を運んだ有名人はネルシャツ姿のジョージ・ハミルトンだけだった。1ヶ月後の1968年4月18日、ケルグレンが指揮をとる中、エクスペリエンスとしてのレコード・プラントでの初レコーディングが行われた。『ロング・ホット・サマー・ナイト』のセッションには、アル・クーパーがキーボードとギターで参加している。

ヘンドリックスはそのスタジオに夢中になった。ケルグレンというパートナーを得たことで、現場であれこれと指示を出す人物は不要になり、1ヶ月も経たないうちにプロデューサーのチャス・チャンドラーは去った。ほどなくしてエクスペリエンスが解体され、バンド・オブ・ジプシーズが結成された。その変化を促したのは、最新の設備を擁する大きくラウドなコントロールルームだったに違いない。チャンドラーとバンドがアルバム制作に集中しようとするのに対し、ヘンドリックスは大勢の取り巻きをコントロールルームに招き入れ、一発で録った楽曲に延々と手を加え続けた。

主導権を握ったことでヘンドリックスは感化され、以前にも増して多くの時間をスタジオで過ごすようになった。ケルグレンとストーンは増え続ける作業に対応するため、過去に仕事を共にしていたイギリス人エンジニアのエディー・クレイマーを雇い、イギリスから多くのミュージシャンを呼び寄せた。「一流ミュージシャンたちの想像力がぶつかり合う、尋常じゃない緊張感に満ちた現場だった」クレイマーは当時をそう振り返る。「夜にまともに眠れたためしがなかった。19時とか20時から夜通しで作業して、終わるのはいつも朝の7時とか8時だった。それから8番街に出て朝食をとり、自宅に戻って数時間寝たらまたスタジオに向かう、そんな毎日だった」

Translated by Masaaki Yoshida

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