WWEの舞台裏で活躍する全身タトゥーのコメンテーター、波乱万丈の歩み

しかし、そこからが挑戦の始まりだった。「父さんは認めてくれたけど、その先については分からないことだらけだったんだ」とグレイブスは語る。

ポリンスキー一家は電話をあれこれかけ、グレイブスはインディ団体との訓練生契約を結び、極寒のピッツバーグで廃墟となったショッピングモールで暖房もなしにトレーニングを始めた。これこそ彼の待望していたチャンスだった。「それが第一歩だった」と彼は語る。最初の数年は毎週3日間を練習に費やした。そのうちにポリンスキー一家は自前でリングを調達、地元の独立系団体との試合興業を始めた。兄弟はピッツバーグ中の地元インディ選手と腕を競ったのだ。

グレイブスの初試合は、ウェストバージニア州のマウンドビルで、バーンと呼ばれる地元の結婚式場に使われるような農場で催された。17歳のやせっぽちの少年グレイブスは、スターリング・ジェームズ・キーナンと名乗った。これは彼が大好きだったフットボール選手スターリング・シャープと、オルタナティヴ・メタル・バンドのトゥールのフロントマンを務めていたメイナード・ジェームズ・キーナンにちなんだリングネームだった。その晩、少年はピッツバーグでデビュー、初ファイトマネーは5ドルだった。

「席に座っていると誇らしくて笑みがこぼれました」と母タニアは語る。「彼はしっかりしていました。もうその時点で将来は見えてきたんです」

初試合後、グレイヴスの下積み生活が続く。「最初は独立系の団体に帯同していたんだけど、できる限り多くの仕事を手に入れようと頑張ったよ」

自分のレスリング活動を支えるために、クレイブスは一夜漬けのスポーツアナウンサーやボディ・ピアサー、タトゥーショップの店員など、どんな仕事でもした。バーの用心棒までしたこともあった。そして2007年のある日曜日、バーテンダーの仕事をしていた彼は、のちに妻となるエイミーと出会った。彼女はBMWの販促モデルとして年に10カ月はアメリカ中に出張して稼いでいた。「正直、最初に会ったときはどうかなるとは思わなかったの」とエイミーは語る。「彼は自分がプロレスラ―だって自己紹介してきたから、私はこう言ったわ。『ねえ、つまり何して食べてるの?』って」


(Photo by WWE)

とはいえ、2人はすぐに打ち解けた。それから1週間後、彼はエイミーの家に引っ越した。付き合って3カ月で婚約して、2009年には長男キャッシュを授かる。間もなく長女レノンも誕生。ただ、生活は厳しかった。妊娠したエイミーは昔のようにBMWのモデルとしては働けなくなり、2つの仕事を掛け持ちして、さらに教育学の修士コースも履修した。全て生まれてくる子どものためだ。グレイブスはといえば独立系団体の興業で週に100ドルしか家に稼ぎを入れられなかった。ボディピアサーとして働いていたときには稼ぎがよければ1日50ドルにもなっていたのに、である。仕方なく妊婦のための社会扶助に頼ることになり、それでミルクやシリアル代を工面したと、エイミーは語った。「10ドルのガソリン代をありとあらゆる小銭をかき集めて払う羽目になって、これはなんとかしなきゃと思ったわ。でも私たちはすごく愛し合っていたの」

Translated by LIVING YELLOW

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE