ボン・ジョヴィ、ロックの殿堂入りスピーチ全文:メンバー全員で35年の歩みを振り返る

アレック・サッチとは、彼がファントムズ・オペラというバンドにいたときに知り合った。アレックはカバー・バンド界隈で一番クールなヤツで、当時リッチー・サンボラとメッセージというバンドもやっていた。彼らはジョー・コッカーのサポートで夏ツアーを行いながら、自分たちのEPをプロモートしていた。アレックは町で一番凶暴なドラマー、ティコ・トーレスとも知り合いだった。あの頃一度だけ、ファスト・レーンでドラムを叩き壊したティコを俺は目撃している。それまで見たドラマーで一番ハードに叩く、大鎚のようなドラマーがティコだった。

当時、ティコは既婚者で、家を持っていて、フランキー&ザ・ノックアウツというバンドで既にレコード契約をしていて、ヒット・シングルも複数もあり、ツアーも行っていた。俺は彼にそれら全部を諦めてくれと説得する必要があった。それもショップの前でリハーサルするだけのために。21の小僧と一緒にやるために。「絶対に無理」と思う俺がいた。でも、日曜日に彼の家に行って曲を聴かせて、ラジオでガンガンかかっていること、彼の助けを借りたいことを、ティコに話した。ティコはこの大勝負に乗ってくれて、それ以来、俺と一緒にいる。

そうやって、デヴィッド、ティコ、アレック、そして当時俺を助けてくれたスネーク・サボが数回のプロモ・ライブでプレイしてくれることになった。ニュージャージー州アバーディーンのファウンテン・カジノでのある夜、アレックがリッチー・サンボラを招いて、俺たちのライブを見せた。リッチーが楽屋に遊びに来てくれて、その場で俺たちは意気投合した。これは語り草になっているが、そこで彼は俺のバンドに入ると言ってくれた。だから俺は「じゃあ、一緒に曲を作ってみよう」と提案した。彼のスタイルが俺のビジョンと合うかを確かめたかったんだ。リッチーがシンガーとしても、ライターとしても、プレイヤーとしても最高だってことは、開始して数秒で気付いたし、彼もすぐにこのバンドへの参加を決めた。

「夜明けのランナウェイ」の成功で、1983年7月にポリグラムと契約することになった。それ以来、ポリグラムは俺たちのホームとして今でも残っている。バンド・メンバーも決まった、レコード会社も決まった、次に必要なのがマネージャーだ。興味を示してくれた人がたくさんいて、みんなユニークだった。ただ、ドック・マクギーの熱量が勝った。音楽の話をしながら彼とレコード店に入って、いろんなアルバムのジャケットとツアー予定表を見ていたときのことを今でも覚えている。俺は、自分が影響を受けた人たちや当時の有名人、ヴァン・ヘイレンやジャーニーについて話した。そしたら、彼は俺たちもそうなれる、もっと大きくなれると言ったんだ。彼はそう信じていたし、俺も彼を信じた。そして彼と契約した。

1984年の初めにアルバムが出て、「夜明けのランナウェイ」はトップ40に食い込んだ。俺たちはスコーピオンズと全米ツアーを行い、その後KISSとヨーロッパに行き、ホワイトスネイクと一緒に初めて日本に行った。

自分たちのこと、曲も名前も知らない観客、言葉すら通じない観客の注目を、40分かそれ以下の演奏時間で集める方法を学んだ。俺たちにオープニング・アクトを任せてくれたバンド、ツアー中にいろいろと教えてくれた人たち、この世界のいたる所にいる人々、ありがとうと言わせてくれ。

1985年、2枚目のレコードが出て、トップ40に2曲ほど入り、ツアーが続き、ゴールド・ディスク(※50万枚以上のセールスに与えられる)を獲得した。これが正念場となる3枚目のレコード『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ(原題:Slippery When Wet)』の制作を後押しし、このアルバムが俺たちの人生を一変させることになった。このときのボン・ジョヴィ・チームは奇跡を呼び寄せた。ブルース・フェアバーン、ボブ・ロック、デズモンド・チャイルド、A&Rのデレク・シュルマン、ドック、ちょっとだけ有名なスタジオ、リトル・マウンテン、そしてバンクーバー。この後、何もかもが変わってしまった。

「禁じられた愛(原題:You Give Love A Bad Name)」、「ウォンテッド・デッド・オア・アライヴ」、「リヴィン・オン・ア・プレイヤー」。ヒット曲を連発し、ついにヘッドライナーになった。あのアルバムとあのツアーに関わった人間全員が全力投入した。何百万枚というレコード、何百本というライブが、次のアルバム『ニュージャージー(原題:New Jersey)』へとつながった。このアルバムからはトップ10シングルが5曲生まれ、レコード売上が上がり、ライブの本数も増えた。前回と同じチームで同じ結果を出した。

「全ての経験は人を強くする」とよく言う。このときの状況に俺たちは死にそうになっていたが、強くなるために生き続けた。俺たちの人生におけるこの章を書くために手を貸してくれた人々全員に感謝する。『ワイルド〜』と『ニュージャージー』をプロデュースしたブルース・フェアバーン、俺たちを信じながら見せてくれた誠実さ、忍耐力、優しさに感謝している。一緒に作ったレコードを聴くたびに君との思い出が蘇るよ。いろんなコツを教えてくれたドック、ありがとう。君は俺たちのパーカー大佐(※エルヴィス・プレスリーのマネージャー)であり、PTバーナム(※サーカスを始めたアメリカの有名興行師)だった。

1992年にロック音楽はシアトル・シーンからの強烈な一撃をくらうことになる。グランジ・シーンの台頭が、俺と同世代のミュージシャンたちにとってターニング・ポイントとなった。80年代の「楽しければいい」的なハッピー・アンセムは時代遅れとなり、ここにいるみんなが想像した通り、俺たちも表舞台から姿を消した。そこで俺はポール・コージリアスと一緒にボン・ジョヴィ・マネージメントを創業した。個人事務所というのはアーティストにとってクールなやり方ではなかったが、ポールのおかげでBJMは25年間ずっと続いている。

時は移り、『キープ・ザ・フェイス』がバンドに新たな息吹を吹き込んだ。ヒット・シングルを出し続け、世界中のスタジアムでライブを行っていた。アレックがバンドを抜け、ヒュー・マクドナルドがツアーに参加した。90年代が終わりを告げようとしていたとき、俺たちは次の章へと歩みを進めていた。

新たな世紀の始まりと共に、アルバム『クラッシュ』で新たな世代に「イッツ・マイ・ライフ」が紹介され、アルバム『バウンス』がそれに続いた。2005年、ジャック・ロヴナーがチームに加わり、現状打破に挑んだ。彼の尽力によってバンドはグラミーを受賞し、のちのJBBソウル・ファンデーションの種を蒔くことになる。また、アルバム『ハヴ・ア・ナイス・デイ』のプロデューサー・コラボレーター・サポートシステムとしてジョン・シャンクスも加わった。

リッチーと俺は「フー・セズ・ユー・キャント・ゴー・ホーム」を作り、ロック・バンドとして初めてカントリーのシングル・チャートで1位になった。その後、続けざまにナンバー1アルバムを3枚出した。『ロスト・ハイウェイ』、『ザ・サークル』、『ホワット・アバウト・ナウ』。すべてが順調だった。

舞台裏のエピソードがあるとするなら、これから語るエピソードが一番面倒だった。2013年のビコーズ・ウィー・キャン・ツアー中、リッチーが俺の横から消えて、フィル・Xに代役を頼んだ。ティコは1度ならず2度も緊急手術を受け、ティコ不在の間のドラマーを迎えて11ものスタジアム公演を行うことになった。

ロック・イン・リオで8万人のファンの顔を見た後、デヴィッドの方を見て、「カバー・バンドに逆戻りしたな」と思った。ヒュー、フィル・X、ティコ、デヴィッドと俺は105公演も行い、相変わらず最高額の年間興行収益を出すツアーを行っていた。そして2014年と2015年にはレコード会社とのいざこざに巻き込まれ、俺の創作パートナーであり、ギタリストであり、仲間だった男の予期しない脱退を経験した。その上、俺の重石であり、弁護士であり、教父のジェリー・エデルスタインが病を患い、引退することになった。この時期、あまりにも多くのものを失ってしまい、俺の声は歌うのをやめた。俺のギターは俺に中指を立てた。マルコムXの言葉を借りるなら「逆境ほどの教訓はない」だろう。

俺は見つけられるだけの助けを求めた。仕事のエキスパートも、スピリチュアルな指導も。俺の天使たち、ケイティー・アグレスタ、メアリー・ジョー・デュプレイ、ジョン・シャンクス、スティーヴ・サクストン、ディーン・グリロ、スティーヴ・コーエン、ルー・コックスが、まともな俺に引き戻してくれた。

Translated by Miki Nakayama

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