世界を制した映画『ブラックパンサー』監督と主演のエモーショナルな物語

監督業と演技、黒人文化の歴史を学んだチャドウィック・ボーズマンと「アフリカ訛り」

コーヒーショップを後にした我々は、ボーズマンが出演する『ラリー・キング・ナウ』の収録に向かうため、エスカレードの後部座席に乗り込んだ。彼はこう話す。「ちょっと母さんに電話するね。そうしないとうるさいからさ」

「やぁ」。彼は電話口の母親に語りかける。「僕は元気さ、母さんがどうしてるかと思って電話しただけだよ。プレミアに着ていく服は決まった? アフリカンスタイルのスカートか。それって僕のガーナ土産だっけ? 写真を撮って送るように誰かに言っといて」

ボーズマンは自ら企画した、地元の子供たち150人以上を招待する『ブラックパンサー』の特別試写会について話していた。「うん、分かった。これからテレビのインタビューがあるからもう切るね」。そう話すボーズマンは、母親からの言葉にこう返した。「僕も愛してるよ。またね」

ボーズマンはサウスカロライナ州の小さな町、アンダーソンで生まれ育った。母親のキャロリンは看護婦で、父親のリロイはテキスタイル工場で働く傍ら、自身で室内装飾業を営んでいた。2人は現在も故郷に住んでいる。

チャドと呼ばれていた彼は、3人兄弟の末っ子だった(「母さんが僕をチャドウィックと名付けたのは不思議だね。黒人男性としては珍しい名前だからさ」)。ダンサー兼シンガーの次男ケヴィンは、『ライオン・キング』のツアーや、アルヴィン・エイリー・カンパニーの公演に参加した経験を持つ。長男のデリックは現在、テネシーで宣教師をしているという。「確かバプティストだったと思う」。そう話す彼は、少しばつが悪そうにこう続ける。「彼らに寄付したんだけど、小切手になんて書いたのか思い出せないんだよね」

人種差別は日常茶飯事だったという。彼が通った学校があるエリアは、彼が生まれる数年前までは近隣区域から隔離されていた。「ニガーと呼ばれたこともある。通りすがりの白人が『ファック・ユー、ニガー』って吐き捨てていくなんてことはしょっちゅうだった。学校に行く途中、南部連合の旗を掲げたトラックをよく見かけた。毎日とは言わないまでも、決して珍しいことではなかったよ」

2015年夏、サウスカロライナ州チャールストンのエマニュエル・アフリカン・メソジスト監督教会で礼拝中だった9名が、白人至上主義者の男性によって射殺される事件が起きた。その2週間後、アトランタで『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』の撮影に臨んでいたボーズマンは、家族に会うためクルマで故郷へ向かっていた。「いとこにアドバイスされたんだ。『そっちには行かない方がいい。白人至上主義者どもが駐車場に集まってる』ってね。差別は今も残ってるってことさ」

寡黙で絵を描くことが好きだったボーズマンは、子どもの頃は建築家になることを夢見ていたという。またバスケの才能を発揮していた彼は、高校生でありながら大学リーグでも活躍した。しかし高校3年の頃、同じチームに所属していた少年が射殺されるという事件が起きた。悲しみにくれながらも、彼は事件に対する思いを演劇の脚本として形にすることを選び、『クロスロード』と題されたその舞台は学内で公演が行われた。そしてその経験は、彼の中に眠っていた物語を書くことへの情熱を呼び起こした。「これが自分のやりたいことだって気付いたんだ」。彼はそう話す。「バスケへの熱意を忘れてしまうほど夢中になった」

監督業について学びたいと考えた彼は、代々黒人が多数を占めるワシントンDCのハワード大学(「ザ・メッカ」の異名を持つ)への進学を希望した。ボーズマンと同時期にハワード大学に通っていた作家のタナハシ・コーツは、自身の著書『世界と僕のあいだに』において同大学を「離散した黒人たちが出会う場所」であり、「ビジネススーツに身を包んだナイジェリアの貴族たちの末裔たちと、紫のウィンドブレーカーを着たスキンヘッドのスポーツ選手たちが、互いの拳を重ね合わせる場所」としている(奇しくも彼は『ブラックパンサー』のコミック版を手掛けてもいる)。ボーズマンはそこで多様な知識を貪欲に吸収した。アフリカをテーマにした書籍専門の本屋で働き、旅でガーナを訪れたりもした。また彼がそのアフリカン・スーパーヒーローについて知ったのも、同大学に通っていた頃だった。

「代々黒人が多数を占めるあの場所で、学生たちは黒人文化の歴史における重要人物たちについて学ぶ」。ボーズマンはそう話す。「ジョン・コルトレーンやジェイムズ・ボールドウィン、ブラックパンサーもその一人さ」

監督業への理解を深める目的で、ボーズマンは演技の授業を受けていた。そのクラスの講師の1人、『コスビー・ショー』でクレア・ハクスタブルを演じたフィリシア・ラシャドは、ボーズマンにとって師匠と呼ぶべき存在となった。「DCでの公演を観に行くたびに、彼女はクルマで自宅まで送ってくれたよ。運転中はずっとこんな感じで喋ってた。『あなたちゃんと食べてるの? ちょっと細すぎるわね、もっとポークチョップを食べなさい』。彼女は僕らが目標とする存在だったんだ」

ラシャドはボーズマンとの思い出についてこう語る。「がっしりとした体つきと大きな瞳、それに優しげで親近感の湧く笑顔が印象的だったわ」。彼女はこう続ける。「彼には大きな可能性を感じていた。でも彼は決して、私に業界の人間を紹介してほしいなんて頼んだりはしなかった。そういうやり方は好きじゃなかったのね。彼は自分の力で道を切り拓こうとしていたの」

ラシャドの授業を受けていた頃、彼はクラスメート数名と共に、オックスフォード大学で行われる有名な演劇の夏期プログラムに応募した。彼らは参加を認められたものの、その費用の捻出という問題に直面していた。「彼女が僕らを後押ししてくれたんだ」。ボーズマンはそう話す。「彼女が相談した有名人の知り合いたちが、その費用を負担してくれたんだ」(彼はこう付け加えた。「それが誰だったかを明かす気はないけど、ビル・コスビーじゃないってことだけは確かさ」)

Translated by Masaaki Yoshida

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