クインシー・ジョーンズを物語る26つの真実

9. アイコン【Iconic】

「彼の素晴らしいキャリアの各ステージにおいて、彼は常にトップだった。彼は、誰よりも先にドアを通り抜けてきた。そして後に続く人々へ大きな自信を与えた。彼はそれを上品にやってのけた」というのは、オバマ大統領がこのライター兼プロデューサー兼アレンジャー兼コンポーザーを評した言葉だ。これ以上我々が追加することは何もないだろう。

10. ジューク・ジョイント【Jook Joint】

ジョーンズは駆け出しの頃、よく酒場(ジューク・ジョイント)で演奏していた。彼が1995年の自由奔放なアルバムに『Q’s ジューク・ジョイント』と名付けたのも、自然な流れだった。スティーヴィー・ワンダー、ボノ、レイ・チャールズが(同じ曲で!)共演し、さらに若きブランディやブライアン・マックナイトも登場したアルバムに、他のふさわしいタイトルはあるだろうか? それ以前の作品もさることながら、『バック・オン・ザ・ブロック』や『Q’s ジューク・ジョイント』は、ジョーンズがスタジオでのコラボレーションを好むことを示すよい例となっている。

11. ケネディ・センター名誉賞【Kennedy Center Honors】

「彼はあらゆる天性の才能を持ち、それを高めることができる人」とは、2001年のケネディ・センター名誉賞のステージでジョーンズを紹介したオプラ・ウィンフリーの言葉だ。米国のカルチャー界で最も栄誉ある賞のひとつであるケネディ・センター名誉賞は、ジョーンズの表舞台と舞台裏での功績とビジョンを評価したのだ。その年ジョーンズは、ジャック・ニコルソン、ジュリー・アンドリュース、ヴァン・クライバーン、ルチアーノ・パヴァロッティという豪華なメンバーと共に受賞した。ジョーンズの授賞式は、彼の少年時代からの友人であるレイ・チャールズによるパフォーマンスで締めくくられた。

12. レスリー・ゴーア【Lesley Gore】

ジョーンズが初めて彼女の歌を聴いた時、レスリー・ゴーアはまだ無名の若者だった。しかしジョーンズは彼女に大きな可能性を感じ取り、その後すぐに、彼の持つオーケストラの才能とポップの感覚を『恋と涙の17才』に注ぎ込むこととなる。ジョーンズのプロデュースによる同曲は、1964年にリリースされるとすぐ、フェミニストのアンセムとなった。ゴーアの神聖なキャリアをスタートさせただけでなく、ジョーンズに、ジャズやサウンドトラックと並んでポピュラー音楽への道も開いた。その後何年もかけてジョーンズは、この才能ある原石を磨き導くこととなった。

13. ミュージック【Music】

長いキャリアの中でジョーンズが持つ多くの肩書の中では、“プロデューサー”が常に一番に来る。レスリー・ゴーアやマイケル・ジャクソンなどジョーンズのキャリアを代表する仕事はもちろん、ディジー・ガレスピー、アレサ・フランクリン、フランク・シナトラらとのプロダクション作業でも彼は、アーティストの長所や本質を大切にしつつ、常に新境地を開拓してきた。そしてアルバム『スリラー』でジョーンズは自身のプロデューサーとしてのトレードマークともいえる、スタジオワークと斬新なイマジネーション、豊富な経験に基づく知識を結集し、ひとつの頂点を極めた。

14. 名前【Name】

クインシー・ディライト・ジョーンズ・ジュニアとして1933年にこの世に生を受けたジョーンズは、名前が既にその後の将来を予見していた。エンターテイメントの世界でぐんぐん頭角を現すにつれ、彼は“Q”というしゃれたニックネームで知られるようになっていった。一文化人がアルファベットの1文字をほぼ独占するのは、珍しい。しかしジョーンズは、“Q”を世界的なブランドにすると同時に、クオリティやクラスの高さの証として確立したのだ。2002年に出版された彼の自叙伝には、もちろん『Q』というタイトルが付けられている。

Translated by Smokva Tokyo

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE