ランDMCが語る1988年、時代を逆行しつつも貫いた信念

左からジャム・マスター・ジェイ、DMC、DJ・ラン 1988年撮影 (Photo by Dave Hogan/Getty Images)

1988年当時、誰もがランDMC(RUN-DMC)はかつての輝きを失ったと感じていた。メンバーたち自身もそう自覚する中、彼らはヒップホップのルーツに立ち返ることで、キャリアを代表する名曲を産み出してみせた。その過程と背景について、DMCが自らの言葉で語ってくれた。

あれから30年が過ぎた現在でも、1988年がラップ史上最も濃密な年だったという事実は変わっていない。そのリリックが社会を揺るがした「ネイション・オブ・ミリオンズ」や「ストレイト・アウタ・コンプトン」、サンプリングというポストモダンなコンセプトの一般化(当時は法整備が進んでいなかった)、絶大な人気を誇った『Yo! MTVラップス』の誕生など、歴史的出来事の枚挙には暇がない。あれから30年の節目を迎えた今、その12ヶ月間に産み落とされた10の名曲について改めて考察する。本記事はロブ・ベース&DJ E-ZロックとEPMDに続く、本シリーズの第3弾となる。

1988年に至るまでの4年間で、何百万枚というレコードを売り上げ、スタジアムを満員にし、ローリングストーン誌の表紙を飾り、数々の新記録を打ち立てたキング・オブ・ロックことランDMCを、チャック・Dは「ヒップホップにおけるビートルズ」と形容した。しかし1988年発表の4作目『タファー・ザン・レザー』は、ライバルたちの活躍の陰に隠れる形となってしまった。ヒップホップにとって節目となったその年は、DJジャジー・ジェフ&ザ・フレッシュ・プリンスがチャートを賑わし、パブリック・エネミーが圧倒的な存在感を見せつけ、スリック・リックやビッグ・ダディ・ケインが瑞々しい感性を宿したリリックで人々を魅了した。しかしランDMCの3人は、トレードマークであるアディダスの3本ラインのジャージの中に、ライバルたちが思いもよらない切り札を隠し持っていた。

リードシングル「ランズ・ハウス」のB面として発表された「ビーツ・トゥ・ザ・ライム」は、ハードなライムとスクラッチ、凶暴なベース、ジェームス・ブラウンやサム・キニソンの声ネタ等、これぞランDMCというべきアイディアに満ちたトラックだった。素早いラップの掛け合いや、ジャム・マスター・ジェイのスクラッチ等、オールドスクールという自身のルーツへの回帰を試みた同曲は、皮肉にも時代の先を行き過ぎていた。デジタル・アンダーグラウンド、デ・ラ・ソウル、ドクター・オクタゴン、カンパニー・フロウといったラップ界の開拓者たち、そして無数のターンテーブリストたちが同曲をこぞってサンプリングしたことは、その事実を物語っている。「ハードコアでフューチャリスティックかつレトロ」なこの不朽の名曲について、DMCが語ってくれた。

ー当時人々はこの曲の魅力を理解できなかったと、あなたは発言されていますね。

俺らのライバルたちは例外だったけどね。EPMD、エリック・B&ラキム、(ビッグ・ダディ・)ケインとかは度肝を抜かれたはずさ。でも一般的なヒップホップのリスナーたちにアピールするには、ちょっと激しすぎたんだろうな。あの曲には本来のヒップホップが持つヴァイブがあった。ヒップホップがまだストリート上にしか存在しなかった頃のヴァイブがね。でも当時のリスナーは、そういうヒップホップ黎明期特有の、いわゆる生のエネルギーに馴染みがなかったんだ。でもそれを知ってる、俺たちのライバルたちの反応はまるで違った。MCやラッパー、プロデューサーやDJたちはこぞって「やっぱりこいつらには敵わない」って言ったもんさ。でもオーディエンスの反応は違った。「ロック・ボックス」の方がいいとか、「ラッパーズ・ディライト」には敵わないとか、エドやLLのレコードの方が上だとか、そういう意見ばっかりだった。ハードコアでフューチャリスティックかつレトロっていう、本物のヒップホップを受け止める用意ができてなかったんだよ。

Translated by Masaaki Yoshida

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