ツェッペリンとローリングストーン誌の激しい対立秘話

レッド・ツェッペリンのライヴ(1970年) . (Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)

1970年代初めに世界を席巻したレッド・ツェッペリンだが、当初はローリングストーン誌とは激しく対立する関係にあった。そのエピソードを振り返る。

ティーンエイジで音楽ジャーナリストになったキャメロン・クロウをモデルとした映画『あの頃ペニーレインと(原題:Almost Famous)』の中で、ある架空の70年代のロッカーが、ローリングストーン誌の記者と話す際の注意事項を語っている。「ローリングストーンは、『いとしのレイラ』をこき下ろしてクリームを分裂させ、レッド・ツェッペリンの作った全アルバムに激しくダメ出しした雑誌だぜ!」

実際にローリングストーン誌は、レッド・ツェッペリンの1stアルバムと、2ndアルバムに厳しい評価を与えている。「ブリティッシュ・ブルーズ・グループのひとつとみなされている最近デビューしたバンドが聴かせているものは、そのバンドの双子的な存在であるジェフ・ベック・グループが3か月前にやっていること以下でしかない」と、ローリングストーン誌上でジョン・メンデルソンは書いている(1969年3月15日付)。「彼らのデビュー・アルバムは、ジェフ・ベック・グループのアルバム『トゥルース』を酷くしたようなもので、中でも注目すべきは、好き放題やっている様や世界の狭さだ」

さらにセカンド・アルバム『レッド・ツェッペリンII』に対するメンデルソンの批評は、業界の基準となった。「おいおい、前言は全て撤回するよ。なんと重いアルバムなんだ! ジミー・ペイジが162〜172cm級で疑いなく世界一ヘヴィなブルーズ・ギタリストだってことは、誰も否定できないだろう」とジョークを飛ばす(念のために言うとジミー・ペイジの身長は約183cm)。メンデルソンは、ロバート・プラントにも批判の矛先を向けた。「このアルバムは、『ブリング・イット・オン・ホーム』という斬新なブルーズ・ナンバーで締めくくられる。曲の中でプラントは、とても真に迫ったうなり声とハープのプレイを聴かせ、さらに“Wadge da trainroll down da track”と歌っている。誰も白人がブルーズを歌えないとは言っていないだろう?」

レビュー欄以外にも、レッド・ツェッペリンはローリングストーン誌に少しだけ登場する。ただし、カーペンターズやグランド・ファンク・レイルロードのように、売れているが大きく取り上げるほどのアーティスト的価値のないバンド、といった扱いだった。このような扱いはローリングストーン誌だけではなかった。当初は各方面の批評家たちが、「レッド・ツェッペリンは酔ったティーンエイジャー向けのエンターテインメントに過ぎない」と切り捨てたため、バンド側もジャーナリストたちを警戒し、それ以降はインタヴューを敬遠するようになった。「ローリングストーン誌の最初のレビューは、本当に辛かった」と、1990年にジョン・ポール・ジョーンズは認めている。「自分たちとしては、いいアルバムを作ったと思っていたから。僕のマスコミ嫌いはここから始まった」

状況は少しずつ好転していった。ローリングストーン誌のレスター・バングズは、アルバム『レッド・ツェッペリンIII』に関して称賛と批判を混ぜた批評をし、後にパティ・スミス・グループのギタリストとなるレニー・ケイは『レッド・ツェッペリンIV』を絶賛した。しかし、本当の意味でレッド・ツェッペリンとローリングストーン誌との間の緊張緩和に貢献したのは、キャメロン・クロウだった。「デビューした時からバンドのファンだった」とクロウは言う。「僕の周りでは大きな話題で、みんな彼らのデビュー・アルバムを隅々まで聴きまくっていた。レッド・ツェッペリンは、ダークで可愛らしさもない破綻したビートルズのようだ。当初から彼らは、ファンのためのバンドだった」

Translated by Smokva Tokyo

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