クイーン、フレディ・マーキュリーの知られざる10の真実

7. ダイアナ妃を変装させ、ゲイクラブへ連れ出した

1980年代半ばまでにクイーンは、バンドの名前(クイーン)を超えて王室と近い関係になっていた。マーキュリーは、後にウェールズ公妃となるレディ・ダイアナ・スペンサー時代から友人関係にあった。“庶民のプリンセス”は、その飾らない物腰で国民から愛された。しかし常にメディアに追い回されることは、若き王室の一員にとって大きな負担となっていた。そこでマーキュリーは、彼女を夜の街へ連れ出そうと計画した。

女優のクレオ・ロコスが2013年に出版した回顧録によると、ダイアナとマーキュリーは英国のコメディアン、ケニー・エヴェレットの自宅で午後を過ごしていた。シャンパンを飲みながら、テレビ番組『ザ・ゴールデン・ガールズ』の再放送を音を消して流しながら、セリフを卑猥な言葉に置き換えてふざけていた。その晩の予定を尋ねるダイアナに対しマーキュリーは、皆でロイヤル・ヴォクスホール・タヴァーンへ行く予定だと答えた。ロンドンで最も有名なゲイクラブだった。プリンセスは一緒に行って発散したい、と言った。

ロイヤル・ヴォクスホールは乱暴な連中が集まることで有名で、常連客同士でよく喧嘩が起きていた。プリンセスに適した場所ではなかった。「私たちは反対したの。“もしもあなたがゲイバーでの喧嘩に巻き込まれたりしたら、明日の見出しはどうなることでしょう?”」と言うロコスに対しダイアナは、すっかりいたずらっ子モードになっていた。そこでフレディが言った。「よし、このお嬢さんを楽しませてやろう」

計画を成功させるためには、変装が必須だった。エヴェレットは、自分が着ようと思っていた服を彼女に提供した。彼女はアーミージャケットを羽織り、黒の飛行操縦士用メガネをかけ、レザーキャップで髪を隠した。「薄明かりの下で、現代の世界で最も有名な人物は、風変わりな格好をしたゲイの男性モデルっぽく見えた」とロコスは振り返る。

彼らはダイアナを、誰にも気づかれずにどうにかバーへ忍び込ませた。マーキュリー、エヴェレット、ロコスの方に気を取られた客たちは、変装したプリンセスのことなど全く気に留めなかった。そのため彼女は自分自身でドリンクをオーダーできるほどだった。「レザーを着た人だかりの中を少しずつ移動しながら、どうにかバーまで行き着いた。私たちはいたずらな小学生のように、お互いを突きあった。ダイアナとフレディはクスクス笑い、そして彼女は本当に白ワインとビールを自分でオーダーした。オーダーし終えた時、私たちはお互い目を合わせて、皆で冒険の旅の勝利を喜んだ。やった!」

あまり図に乗らず、彼らはわずか20分程でその場を後にした。しかしダイアナにとって、短時間でも有名人の重荷を取り除けたことは、貴重だった。「またやらなくちゃ!」と、彼女はケンジントン宮殿への帰り道も興奮していたという。

1990年代初めにマーキュリーとエヴェレットが、AIDSが原因で相次いでこの世を去ると、ダイアナは英国AIDS基金の後援者となった。同基金は、英国を代表するAIDS患者支援組織のひとつだ。ダイアナのロイヤル・ヴォクスホール・タヴァーンでの一夜は2016年にミュージカル化され、同クラブで上演された。

8. マイケル・ジャクソンとレコーディングしたマーキュリーだが、キング・オブ・ポップの飼うラマに邪魔された

クイーン結成以前からマーキュリーは、マイケル・ジャクソンがお気に入りだった。彼はよくハードロック好きのルームメイトたちに、ジャクソン5の『帰ってほしいの』の素晴らしさを声高に語っていた。「フレディはマイケルに畏敬の念を抱いていた」と、彼のパーソナル・アシスタントだったピーター・フリーストーンは伝記作家のブレイクに語った。ジャクソンが1982年の大ヒット作『スリラー』で芸術的にも商業的にも新たな高みに上った時は、キング・オブ・ポップとクイーンのフロントマンが協力する完璧なタイミングだった。

1983年春、マーキュリーは3曲のデモを製作するため、カリフォルニア州エンシノにあるジャクソンのホーム・スタジオを訪れた。『生命の証』は、クイーンの1982年のアルバム『ホット・スペース』のセッション中に作られた曲で、歌詞が完成していなかった。セッション・テープには、マーキュリーがジャクソンにアドリブで歌詞を付けるよう促している様子が収めされている。『ステイト・オブ・ショック』は大部分をジャクソンが作った曲で、『ヴィクトリー』は2人の共作だった。

これら楽曲は結局完成されなかったものの、デモのブートレッグでは、苦労の様子が伺える。『生命の証』は別バージョンで、1985年のマーキュリーのソロ・アルバム『Mr.バッド・ガイ』に収録された。『ステータス・オブ・ショック』は、ジャクソンがミック・ジャガーとのデュエットで1984年にシングルとしてリリースした。『ヴィクトリー』は、本稿執筆現在でもお蔵入りしたままだ。

ジャクソンとの共同作業が世に出なかった理由を説明する際、マーキュリーはとても慎重だった。「何かを完結させるには、2人は別々の国に長くいすぎたようだ」と彼は1987年に述べている。しかしほぼ同時期に行われた別のインタヴューでは、キング・オブ・ポップへのフラストレーションを垣間見ることができる。「彼はただ自分の狭い世界へ閉じこもってしまった。一緒にクラブへ出かけて楽しんだりもしたが、今や彼は自分の要塞から出てこようとしない。悲しいことだ」

クイーンのマネジャーだったジム・ビーチによると、よく取り沙汰されるジャクソンの奇行が、スタジオでマーキュリーの癇に障り始めたのだという。「フレディから突然電話を受け、“すぐに来て俺をスタジオから連れ出してくれないか”と頼まれた」とビーチは、ドキュメンタリー『The Great Pretender』の中で明かしている。「“何か問題があったか”と私が聞くと彼からは、“俺は今ラマとレコーディングしている。マイケルが自分のペットのラマを毎日スタジオへ連れて来ているんだよ。俺はラマと一緒にレコーディングしたことなんてない。もうたくさんだ。帰りたい”と言われたんだ」

ジャクソン側も、マーキュリーの悪習を嫌っていたようだ。マーキュリーの元パーソナル・アシスタントがザ・サン紙に語ったところによると、マーキュリーが100ドル札でコカインを鼻から吸い込む姿をジャクソンが目撃したために、セッションが続けられなくなったという。

ともかくマーキュリーは、この世を去るまでジャクソンとのコラボレーションの失敗に対して神経質だった。「フレッドは、マイケルとレコーディングした作品がジャクソンズに置き換えられて彼が追い出されたため、少し怒っていた」とメイは、ドキュメンタリー『Is This the Real Life』で語っている。『生命の証』はウィリアム・オービットのプロデュースでリミックスされ、2014年のコンピレーション・アルバム『クイーン・フォーエヴァー』に収録された。マーキュリーとジャクソンによるその他の2曲は、未発表のままだ。

Translated by Smokva Tokyo

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