クイーンとして生き抜いた、フレディ・マーキュリーという悲劇的なラプソディ

1987年、マーキュリーは再びエイズ検査を受けたが検査結果を見るのを避けていたように思われた。彼がかかっていた病院はマーキュリーに何度か連絡を取ろうとしたが反応がなく、オースティンに連絡を取り事態の緊急性を彼女に説明した。マーキュリーはついにHIV陽性の診断が下された。「心が抜け落ちるのを感じたわ」とオースティンは後に語っている。しかし、マーキュリーはまだバンドには伝えなかった。「何かが起こっているのはわかっていた。でもそれについて話すことはなかった」とメイは後に語る。この頃までにマーキュリーの前マネージャー、ポール・プレンターがイギリスの新聞にその血液検査についてすでに話しており、マスコミはその問題を公表するようバンドにプレッシャーをかけ始めていた。しかし、マーキュリーはその噂が嘘であると主張した。飲み過ぎで肝臓を悪くしているのではないかと推測する友人もいたが、1987年にバレンティンが彼の顔と手にある、カポジ肉腫の可能性が疑われる傷に気づいた。

バンドの13枚目のアルバム『ザ・ミラクル』が1989年初旬に完成するとマーキュリーはすぐに次のアルバムに取りかかろうとした。彼はできる限り多くの作品を録るために、ついにメンバーにその理由を話さなければならないと悟った。「彼は俺たち全員をミーティングのために家に招いた」とテイラーは言う。マーキュリーはメンバーに「たぶん俺の問題に気づいていると思うけど…、その通りだ。でも今までと何も変えたくないし、人に知られたくもないし、話したくもない。ただ俺は倒れるまでどんどん曲を作っていきたい。だから俺をサポートしてほしい」と伝えた。メイ、テイラー、ディーコンはひどくショックを受け、「俺たちはその場を後にし、それぞれでこっそりと落ち込んではいたが彼の病気に関して直接話をしたのはその時だけだった」とメイは後に語っている。

マーキュリーの問題に対する認識は当然のように新作『イニュエンドウ』の制作に影響した。「それによって一体感、団結力が生まれたんだ」とテイラーは語る。それぞれが曲を作る者としてクイーンは自分たちにとっての究極のテーマに向き合っていることを自覚したがバンドの慣習からそれについて話し合うことを難しいことであった、とメイは言う。「照れくさくて俺たちは詞について話し合うことはできなかった」とメイは2004年にモジョ誌に語っている。たとえそうであったとしても『イニュエンドウ』は差し迫った死を、他のどんな作品もが望むほど印象的かつ優美に、そして、自らを憐れむような瞬間を見せることなく描いている。「終盤に近づくにつれてはっきりとわかってきたんだ。フレディは時々、自分が言いたいことを言葉にできないことがあって、こんなふうに言うと変に聞こえると思うけど、歌詞を書くにあたって、ある意味ロジャーと俺が彼の代わりにそれを言葉にしたと言ってもいいと思う。フレディはもうそれを言葉するのが難しくなって来ている状態だったんだ。だから、俺の「ショウ・マスト・ゴー・オン」やロジャーの「輝ける日々」は、フレディの俺たちとの協力の仕方で俺たちがフレディのために作った曲なんだ。でも、それは話し合ったわけではない。終わりにたどり着く前に俺たちが終わりを見つけようとしていたんだ」とメイが語り、「俺たちは最後まで団結しようって決めたんだ」とテイラーが付け加えた。

「不思議なことにすごく楽しく感じたんだ。フレディは苦しんでいたけど…、スタジオの中は温かい空気で、彼は幸せを感じ自分が好きなことを楽しむことができたんだ…。彼は日によっては疲れてしまって1日数時間しか出来ないこともあった。でも、その数時間で彼は多くをやり遂げたんだよ。立ち上がることが出来なかった時、彼は机を支えにしてウォッカをぐいっと飲み干して、『血が出るまで歌うよ』って言ったんだ」とメイは語る。

Translated by Takayuki Matsumoto

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