クイーンとして生き抜いた、フレディ・マーキュリーという悲劇的なラプソディ

フレディ・マーキュリーは、1946年9月5日ファルーク・バルサラとしてアフリカ東海岸沖のイギリスの保護国ザンジバルでゾロアスター教(世界最古の一神教宗教の1つ)信者のパールシー一家に生まれた。ファルークの父ボミはイギリス政府高等法院の出納係であった。それは彼と妻ジャー、ファルーク、そして後に生まれるファルークの妹カシミラが、ザンジバルに住む大半の人々に比べて特別な扱いを受けて生活していたということを意味している。1954年、ファルークが8歳の時、バルサラ夫妻は彼をインドのパンチガニにあるセント・ピーターズ英国国教会学校に入れた。セント・ピーターズはボンベイ(現在のムンバイ)から150マイルのところにあり、長年に渡ってその地域で最もすばらしい全寮制の男子学校とみなされていた。ファルークは当時、ひどく突き出た上の歯を気にする内気な少年であった(そのせいですぐに「バッキー」というあだ名を付けられ、彼は笑う時は手で口元を隠すなど、その後もずっとその歯を気にして生きていった。同時に、口の奥の4本の過剰歯が原因であるその明白な出っ歯が、彼の声に独特な響きをもたらした神の恩恵なのかもしれないと感じていた)。

多くがファルークはセント・ピーターズで孤立していたと記憶している。「自分の面倒は自分で見ることを学んだ。だから俺は速く成長した」と数年後、彼は語った。何人かの教師が彼を親しみを込めてフレディと呼び始めると彼はすぐにその名前を受け入れた。彼は自分らしさも磨いていった。フレディは家族の影響でオペラに傾倒していたが、西洋のポップ・サウンド、特にリトル・リチャードの激しいピアノのロックンロールやファッツ・ドミノ技巧的なR&Bへの愛も深めていた。彼が一度曲を聞くとピアノで演奏できることにフレディの叔母シェルーが気づき、両親は彼に個人レッスンを受けさせることにした。1958年、彼はセント・ピーターズの他の生徒とザ・ヘクティックスというバンドを組んだ。伝記本『フレディ・マーキュリー ~孤独な道化~』の中で、近くの女子校の生徒Gita Choksiはステージに上がった彼はもはや内気な少年ではなく「とても華やかなパフォーマーで、ステージで間違いなく彼の本領を発揮していたわ」と語っている。

セント・ピーターズの生徒にはファルークがGitaに片思いをしていたと思っていた者もいるが彼女はそのことには全く気づいていなかったと言う。また別の者たちはファルークが性的なことに積極的であった形跡はほとんどないが、ゲイであることはすでに明らかだったと感じていた。現在、前出の女子校の教師であるジャネット・スミスは彼について「極端に細くて強烈な少年で、人を『ダーリン』と呼ぶ癖があって、すこし変わっていたと言わざるを得ない。単純にそれは当時の男の子たちがするようなことじゃなかったから…。ここにいた時、フレディがゲイということは受け入れられていたわ。普通だったら『ああ、なんてこと。ぞっとするわ』ってなっていたかもしれないけど、フレディに関してはそうじゃなく、大丈夫だったの」と回顧する。

1963年、フレディはザンジバルの家族のところに戻った。同年、イギリスの植民地支配が終わり、1964年にザンジバルでは革命と虐殺が起こり、バルサラ一家はイギリスのロンドン郊外のミドルセックス州フェルサムへと逃げた。気候は荒れており、収入もあまり良くなくて、フレディは家族が理解できないような方向へと変わっていった。「俺はとても反抗的で、両親はそれが気に入らなかったんだ。俺は幼い時に家を出て育った。でも俺は自分にとって一番いいことを望んでいた。誰かに指図はされたくなかったんだ」と1981年にローリングストーン誌に語っている。

ザンジバルとボンベイに残してきたものがなんであれ、その過去はフレディ・バルサラが話したがるようなものではなかった。彼はちょうどいいタイミングでスウィンギング・ロンドンやザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズの時代の波に乗ることができた。人生が開け始め、彼は未来のすべての瞬間を大いに楽しむつもりでいた。

Translated by Takayuki Matsumoto

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