クイーンとして生き抜いた、フレディ・マーキュリーという悲劇的なラプソディ

ツアーの終わりには莫大なチケット需要があり、クイーンは1986年8月9日にネブワース・パークで約200,000人キャパの追加公演を決めた。そして、それっきりだった。ライブが終わるとマーキュリーは慌ただしく会場を去った。何かが彼の頭にあったことは明らかだった。彼は自分を愛してくれたオーディエンスにこれ以上見られたくなかった。クイーンは最後のライブを終えたのだ。

1980年代初め、アメリカでは当初、感染の約半数が記録されたニューヨークを始めとしてエイズが猛威を振るい始めていた。その致命的な病を「ゲイの伝染病」だというものもいたが、すぐにそれがそのような偏見にさらされるべきものではなく、免疫システムを破壊するHIVウィルスによって引き起こされ、精液や血液などの感染した体液を通じて伝染するものであるであることが明らかになった。それは主に薬物使用者による注射器の使い回しや、複数のパートナーと避妊具を使用しないセックスをすることで広がった。フレディ・マーキュリーは後者に当てはまった。「俺は毎朝起きて相手の男の頭に触れて相手がヤりたいか確かめようとするようなただの軽いやつなんだ」と彼はかつて語った。

1970年代の終わりから1980年代の終わりにかけて、クイーンはミュンヘンを拠点としていたが後に後悔することとなる。ミュンヘンには活発で多様性に飛んだセックス・カルチャーがあり、マーキュリーにとってそこは天国でもあり地獄でもあった。マーキュリーは時折スタジオにいるのを我慢できないことがあり、夜はミュンヘンのディスコやクラブに行くために「彼は自分の分を終わらせたらすぐに出ていきたがったんだ」とメイは後に語っている。ある夜、彼はライナー・ファスビンダーの映画の何本かに出演していたバーバラ・バレンティンに出会った。マーキュリーは(噂されたバレエのスター、ルドルフ・ヌレエフも含め)複数の男性の恋人と真剣で、時に激情的な関係を続ける一方、バレンティンとも深い恋愛仲になった。彼はこの頃、ドラッグに手を染め酒にも溺れており、記憶をなくし前日の夜のことを思い出すことができないことも何度かあった。バレンティンはマーキュリーがアパートのバルコニーから下にいた工事作業員に向かって裸で「伝説のチャンピオン」を歌った後に「その中で一番でかいペニスのやつ、上がってこい!」と言っているのを見つけた時のことをレスリー・アン・ジョーンズに語った。

マーキュリーがエイズの感染のリスクとどのように向き合っていたかは様々な記事に書かれている。彼が1982年以降クイーンのアメリカ・ツアーを望まなかったのはそれが理由だと考える人もいた。しかし、BBCのDJポール・ガンバチーニは1984年のある夜にロンドンのヘヴンというクラブで偶然であった時のことをこう語る。ガンバチーニはマーキュリーにエイズの存在によって野放しのセックスに対する態度は変わったかと聞いた。するとマーキュリーは「『クソくらえだ』俺はみんなとやりたいことをすべてやっている」と答えた。ガンバチーニは「本当に気持ちが沈んだよ。フレディが死ぬのを確信できるほどニューヨークでいろんなものを目にしてきたからね」と語る。マーキュリーは以前、ジャーナリストのリッキー・スカイに「俺は生まれつきとても落ち着きがなく、神経質で…。本当にぶっ飛んだ人間で自分にも人にもよく害を与えてしまうんだ」と語っていた。ある時、マーキュリーははっきりと考えを改めた。1985年の終わりに彼はエイズ検査を受け結果は陰性だった。ミュンヘンのクラブ・シーンを離れ、またバレンティンとの関係も終わらせた。ケンジントンの邸宅に落ち着いた。元恋人で当時の秘書であるメアリー・オースティンが1980年に彼のために見つけた家である。「セックスのために生きてきた。俺はまったく見境なく関係を持っていたけどエイズが俺の人生を変えてくれた」と彼は後に語っている。

Translated by Takayuki Matsumoto

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