キング・クリムゾン50周年記者会見で明らかになった15の事実

11.ロバート・フリップなしのキング・クリムゾンはありえない。

この日最も短いやり取りは、最も聴き応えのあるものだった。「キング・クリムゾンはロバート・フリップ抜きでもキング・クリムゾンと言えるでしょうか?」とあるライターの問いに対しフリップは、「ノー」とほとんど躊躇なく否定する。「では、あなたがパフォーマンスを止める時が、バンドとしてのキング・クリムゾンの終わりでしょうか?」には「イエス」と答えた。フリップは、バンドの結末は決まっていないと明確にしたものの、今我々は「彼が止めたらキング・クリムゾンも終わる」ということを理解した。



12.しかし彼はかつて、ジェネシスのスティーヴ・ハケットと交代することも本気で考えた。

1974年、フリップは突然キング・クリムゾンを解散して音楽業界の一線を退き、J・G・ベネットとG・I・グルジェフにスピリチュアルの教えを学んだ。「それまで私が関わっていたプロフェッショナルライフのものすごい恐ろしさや愚かさに、私は参ってしまっていた」とフリップは当時を振り返った。しかし彼は「他のメンバー、ローディーやバンドの音楽に対する責任を感じていた」と続ける。バンドを完全に終わらせることなしに自分が身を引く方法を模索する中でフリップは、結成時の元メンバーでサックス奏者のイアン・マクドナルドに再加入を打診した。「そうすることで初期キング・クリムゾンの血統を継ぎ、バンドの次のステップに権威を持たせられると考えた」とフリップは言う。さらに「別のギタリストを加入させるのが、キング・クリムゾンにとっては比較的自然な流れだろう」と彼は考えた。そうして彼の頭に浮かんだ候補のひとりが、当時ジェネシスでギターをプレイしていたスティーヴ・ハケットだった。しかし、フリップ抜きのキング・クリムゾンが実現することはなかった。フリップが自分のアイディアをマネジメント側へ伝えた時、「我々はロバートなしのキング・クリムゾンに興味はない」と却下されたのだ。

フリップが脱退を考えたのは、これが初めてではなかった。マクドナルドとオリジナルのドラマーだったマイケル・ジャイルズが1969年後半にバンドを抜けた時、フリップは自分が代わりに脱退すると提案した。前出のシド・スミスの著作によると、マクドナルドとジャイルズは、クリムゾンにとって重要なのは「自分たちよりもフリップ」だとして申し出を断ったという。そうしてフリップはバンドの事実上のリーダーとなった。「少なくとも45年以上に渡り、私はキング・クリムゾンを誰か他の人間の手に委ねようとしてきた」と、フリップは明かした。

Translated by Smokva Tokyo

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