グラフィティ出身、浮世の女性たちを和紙にスプレーで描くアーティスト

TOMI-E(Photo by Yuji Shiraki)

10代でヒップホップと出会い、91年に16歳で単身渡米、アメリカでグラフィティと出会い、西海岸を拠点に活動を開始したTOMI-E。

94年の帰国後はグラフィティにとどまらない様々なプロジェクトや作品を手がけてきたが、近年、浮世絵との出会いがあり、それまでに培ってきたグラフィティと浮世絵を融合した独自のスタイルを模索し続けてきた。昨年8月にはこの10年に渡って描いてきた600点以上にものぼる作品の中から、女性をテーマにした作品を厳選した画集「富壱 tomi-e」"艶" を出版した。

ーグラフィティを始めたきっかけは?

TOMI-E:八王子の古着屋で働いてた時、有線でラップが流れてたのをきっかけに、ヒップホップに辿り着いたんです。それで、アメリカで買い付けに連れていってもらった時に、ブロック・パーティに行って。写真を撮って、真似して自分でも始めるようになりました。古着屋の買い付けでアリゾナ、LAに行くようになって。ビザを取って、うろうろしてましたね。とにかくブラック・ブックに描きまくって。壁にも描きまくって。上手い下手とか、誰かに見せるとかじゃなくて、自分をぶつけてたって感じですね。

ー帰国する頃には日本でもちょうどグラフィティのシーンが始まっていましたよね。

TOMI-E:本当に初期の面白い時代で。日本にはKAZZROCK、JELL-O、SMASH、NESM等がいました。当時グラフィティと言えば、桜木町の高架下の壁だったので、そこで描いてて、雑誌Fineに取材してもらって。そこからみんなにつながったんですよ。見よう見まねではあったけど、この世代はストイックにやってましたね。

ーそこから絵を仕事にしていこうとなった転機は?

TOMI-E:仙台のクラブからFine編集部経由で連絡をいただいて、壁を描いたんですよ。20歳そこそこのヤツが好きで勝手に描いてたのが、初めての仕事で8万円のギャラをいただいて。働いてた電気屋を辞めて、「俺はこれをやりたい!」って思いましたね。ただ、今でもそうなんですが、営業をしたことがなかったんで、そこで一回どん底です。それで94年にG-SHOCKの仕事をいただいて。企業仕事をやらせていただくようになってから、どんどん広がっていきました。ただその時点でマインドは変わりましたよ。当時のライターはヴァンダリズムだったり、顔を出さなかったり、個人の自由だけど暗黙のルールがあった。今のバンクシーにしても、謎めいた存在ですよね。でも俺はそういうのは関係なく、目立ちたいっていうのが先行してましたから。その頃はちょうどベンチャー起業が出始めてた時だったので、バジェットを投げるから何か面白いことができないか?って言われて。そこでゲームとか漫画を作ったり、グッズを出してみたりとかいろいろやってたんです。

その次に声がかかったのが芸能で。その時に、ヒップホップの中で芸能に足をつけてる人がいないな、これは面白いかもしれないと思ったんです。タバコの広告とか、違うアプローチからも仕事が入るようになって。その間にTV番組も入ってくるようになったんです。でも契約してすぐに事故を起こしてしまって。借金を抱えて、2年間腕が効かなかったことによって、マインドが変わっていきました。その後にまた面白い縁で、そのTV番組の制作会社が、俺をモデルにした映画(『TAKI183』)の話を持ってきてくれたんです。その映画を作ることによって独立しようと思ったんですよ。そこで、映画で着る服をブランド化して、最初の資金を作ろうと思って、それでACC(ASIAN CAN CONTROLERZ)が始まったんです。そこでブランドが売れて、クルーもどんどん増えていった。でもそれも2008年の12月30日に全員集めて、「解散」って言ったんですよ。やっぱり一人ひとりの絵が強くなっていかなきゃいけないから。で、僕の転機もそこであって。キャンバスに描いて、初めて個展をやらせてもらいました(2008年、銀座SHINWA ART MUSEUMでの「TOMI-Exhibition」)。でもそこから絵を描けなくなった時があって。


「生和貴」(©︎TOMI-E, Photo by Yuji Shiraki)

ーそこから浮世絵との出会いがあるわけですよね。

TOMI-E:美術館で実際に働いてみて、そこで棟方志功とか葛飾北斎に出会ったんです。絵師がいて、彫り師がいて、刷り師がいる。そこの三位一体があって浮世絵が出来上がる。そこにヤラレてしまったんです。

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