現場目線で振り返る、2010年代の日本語ラップシーン座談会

渡辺:先ほどの話に戻ると、AKLOのミックステープなどがリリースされるようになり、日本でもネット上をひとつのシーンとして捉える動きっていうのが加速してきた、と。

伊藤:それにも理由があって、ネットを最初の主戦場として台頭したアーティストの多くは、コネやシーンとの繋がりが薄いアーティストが多かったんですよね。コネクションがない中、成り上がるための手段としてネットを使って知名度を上げた代表格がAKLOだったと思う。SIMI LABも似たような感じでしたね。YouTubeで発表した 「WALK MAN」 のビデオが話題になって……あ、YouTubeが定着してアーティストが活用するようになったのも2000年代後半ぐらいからですよね。


全編でビート・ジャックに挑戦したAKLOのミックステープ『2.0』(2010年)。ジャケットからアップロードに至るまで本人の手による意欲的な作品。フリー・ダウンロードという形態も、当時は新しかった。


SIMI LABの名を瞬く間に広めた1曲「WALK MAN」。QNの手による脱臼的なトラックの上で、OMSBやMARIAら各々の個性とスキルが光る名作。彼らはその後SUMMITの中核的存在に。

渡辺:ネットを主戦場にしていたという点では、Cherry Brownも既に2008年からネット上でミックステープを発表したし、ニコニコ動画にも音源をポストしていました。

伊藤:テクノロジーの発達によって、人脈とか誰かの後輩とか、どこが地元かとかにとらわれず、新たな才能が出てきやすくなったのはその時代からですよね。

渡辺:アメリカでソウルジャ・ボーイが2000年代半ばにYouTubeとMyspaceでいきなりヒットを飛ばしたように、数年遅れで日本もそうなってきたと。

伊藤:だからAKLOは、ある意味日本版ソウルジャ・ボーイなのかも(笑)。

渡辺:SIMI LAB「WALK MAN」のビデオが公開されたのは2009年で、SLACKが『Whalabout?』を出したのもこの年。以前までは宇田川町がヒップホップ・シーンの中心地でしたが、渋谷にいる必要もなくなった。そして、周辺地域にいる若手のアーティストが、先輩後輩の後ろ盾もないまま活発に動くようになった流れができた、と。

伊藤:そうだね。


1st『I’m Serious』から1年を待たずリリースされたSLACK(現5lack)の2ndアルバム『Whalabout?』。ちなみに、兄・PUNPEEとGAPPERから成る3人組ユニット、PSGの『David』も同時期のリリース。

渡辺:伊藤さんは BLASTの最終号で、「日本のシーンが細分化していって、BLASTが掬いきれなくなった」とも取れることを書いてましたよね。

伊藤:シーンが細分化して難しくなったというよりは、シーンが多様化したことによって、それぞれのクラスタしか聴かない/興味がない人が増えちゃったから、BLASTみたいに洋邦問わず幅広いスタイルのヒップホップを扱う雑誌がやりづらくなったんですよ。満遍なく取り上げるっていうのにムリが生じてきた。

渡辺:なるほど。

伊藤:この場合、多様化とか細分化って二つあると思うんです。一つはスタイルの多様化、もう一つが世代の多様化。SLACKやSIMI LABは、音楽的なスタイルというよりも世代の多様化のひとつの象徴なんだと思います。このくらいの世代からやっと、20歳くらいで全国的に有名になれるアーティストが増えてきたんです。90年代〜2000年代は、みんな10代からラップを始めてても、そのくらいの年齢でアルバムデビューまでするのは稀だったし、アルバムデビューの年齢は若くても24〜5歳ぐらいが平均だったと思う。例えばBLASTのこの最終号で、「未来を担うアーティスト」として表紙に選んだアーティスト(ANARCHY、サイプレス上野、COMA-CHI 、SIMON、SEEDA)は、この本を出した2007年の時点で既に20代半ば前後の人たちだった。


日本唯一のヒップホップ専門誌として1994年に立ち上がった『FRONT』を前身とし、1999年1月に独立創刊/月刊化した『blast』は2007年5月号をもって休刊。最終号では、特集「THE FUTURE 10 OF JAPANESE HIP HOP」から選出された5人のラッパーが表紙を飾った。

渡辺:この表紙を久しぶりに見て、ちょっと驚いたのが……(当時の)未来を象徴するMCがこの5人だったわけじゃないですか。でもこの時、SIMONが25歳、ANARCHYも26歳くらいだったはずで。

伊藤:そう、今の基準だと別に若くないんです。この頃はまだ、20歳そこそこで表紙を飾れるポテンシャルのアーティストがほとんどいなかった。その傾向が大きく変わっていったのが、SLACKとかSIMI LAB、RAU DEF(※)とかが台頭した時期だと思います。

※1989年生まれのラッパー。2009年には「BBOY PARK」に出演、翌年にはアルバム『ESCALATE』をリリース。「KILLIN EM!」でのZEEBRAとのビーフは物議をかもした(後に和解し、「HYPATECH」で共演)。

渡辺:自分の好きなタイミングで、サクッと曲を出せるようになったのも大きいんでしょうね。

伊藤:レーベルや流通会社に依存しないで楽曲を発表できるプラットフォームが充実してきたというのは大きいですね。あと、ネットの進化と大都市一極型のシーンの構図が崩壊した時期もリンクしてるんです。それまでは、東京や大阪のような大都市を拠点に活動していないと、それだけでハンデが生じるような状態で、東京においても、まずは渋谷のクラブシーンでの活動で評価を高めて、そこからアルバムデビューという流れが王道だった。だけど、渋谷・宇田川町のヒップホップの情報発信地としての機能が弱まっていき、特定の場所/現場やキャリアの長さに依存しないで活動するアーティストが増えてきた。例えばSIMI LABの地元は東京近郊だけど少し離れた相模原エリアだし、RAU DEFは千葉でしたし、SLACKやPUNPEEも板橋区が地元で、「東京のヒップホップ=渋谷」のような構図に依存していなかった。

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