早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

サム・クック

 Jess Rand/Michael Ochs Archives/Getty

1964年没 享年33歳

ミシシッピに生まれシカゴで育ったクックはゴスペルとポップスを繋ぎ、何世代ものシンガーに影響を与えた、ソウル・ミュージックの発展に欠かせない人物であった。彼は50年代にソウル・スターラーズのメンバーとしてゴスペル界のスターダムに上り、チャート1位を獲得した1957年の名曲「ユー・センド・ミー」で更なる人気を獲得した。その成功の後も、なめらかな発音と心地よいフレージングをブルージーなノリと都市的な雰囲気に乗せ、ヒットを連発した。彼は60年代初期のトップ40の中心となるアーティストだった。しかし、今日も論争が続いている事件ではあるが、1964年12月11日のロサンゼルスで彼は殺され、そのキャリアに終止符が打たれてしまった。ホテルの管理人の申し立てによるとクックが当時22歳の女性をレイプしようとし、その後、管理人は彼に襲いかかられたため正当防衛として銃を撃ったとしている。検死官は正当防衛を認めたがその発砲の状況には曖昧さが残されている。その死の11日後、クックのキャリア史上最もすばらしい曲「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」がリリースされた。ルイジアナの白人専用のモーテルに拒絶された自身の経験に基づいて作られたもので、この曲は公民権運動のアンセムとなり、60年代を象徴する1曲となった。ローリングストーン誌の「史上最も偉大なシンガー100人」でクックが4位に選ばれた時、ヴァン・モリソンは「サム・クックは純粋な心で核心に触れた。彼には本物のゴスペルをやるすばらしい能力があった。彼はそれを本物で偽りのない率直なものにしたんだ。ゴスペルが彼のすばらしい曲に勢いを与えた。最初に出てきたレイ・チャールズ、そして、オーティス・レディングもそうだったようにね」と綴っている。

オーティス・レディング

Michael Ochs Archives/Getty

1967年没 享年26歳


オーティス・レディングの1967年6月のモントレー・ポップ・フェスティバルでの信じられないようなパフォーマンスはロックの白人オーディエンスに衝撃を与え、ジャンルの壁を取っ払った、ポップ・ミュージックの歴史における象徴的瞬間であった。そのほんの数カ月後の12月10日、その夜にライブを予定していたウィスコンシン州マディソン近郊に乗っていた飛行機が墜落し、彼は亡くなった。当時、彼は「ドック・オブ・ベイ」のレコーディングを終えようとしているところだった。この曲はモントレーでのパフォーマンスで見えた、人種的、社会的な可能性が史上最も説得力のある曲の1つに集約された“フォーク・ソウル”のモニュメントのような曲である。「トライ・ア・リトル・テンダネス」や「ペイン・イン・マイ・ハート」、ローリング・ストーンズの「サティスファクション」のパンチの効いたカバーなどがヒットしたおかげで彼はすでにR&B界で影響力のあるアーティストになっていた。彼が亡くなった頃には彼の芸術性が情熱と可能性の新たな段階に入っていくところだったがゆえに、その悲劇的な死は多大な衝撃を与えた。レディングが亡くなった後、「ドック・オブ・ベイ」の最終ミックスの仕事を託されたブッカー・T&ザ・MG’sのスティーヴ・クロッパーは「エルヴィスはロックの王様だった。オーティスはソウルの王様だったが、もし彼が生きていたら彼はすべてにおける王様になっていたと思う」と語っていた。

ブライアン・ジョーンズ

David Redfern/Redferns

1969年没 享年27歳


オリジナル・ギタリストのブライアン・ジョーンズの努力がなければ、ザ・ローリング・ストーンズは存在し得なかっただろう。彼がジャズニュース誌の1962年5月号にバンドメンバー募集の広告を出し、前身バンドを結成し、そして、その出来たてのバンドにマディ・ウォーターズの「ローリング・ストーン」に由来する名前をつけた。ミック・ジャガーがキース・リチャーズと曲を書くようになり、バンドがオリジナル曲をやるようになるとバンド内でのジョーンズの影響力は劇的に落ちていったが、彼のアメリカのR&Bミュージックへの愛は初期の彼らのサウンドに極めて重要な役割を果たしていた。薬物依存によりまともな状態でなくなった彼はさらにその力を失い、最終的に1969年の夏にはバンドをクビになった。数週間後、イギリスのサセックスの自宅プールに沈んでいるジョーンズが発見された。今日に至っても殺人を疑う人もいるが、多くの証拠が検死官の「不運の死」という報告を裏付けている。「彼は初期の頃に大きな貢献をしてくれた。本当に夢中になっていたよ。常にそうあるべきだけどね…。彼は自分で自分の首を締めたんだ。彼は週末にトラディッショナル・ジャズをプレイしたり学校で教えたりしていたほうが良かった。そうすればたぶん順調にやっていたと思う」とミック・ジャガーは1995年にローリングストーン誌に語っている。

ジャニス・ジョプリン

Terry O’Neill/Hulton Archive/Getty

1970年没 享年27歳


ジョプリンは型にはまった性差別主義のカルチャーに何の根拠もなく飛び込んで切り開いた初の女性ロックスターだ。あったのは欲望、苦しみ、驚くほどに輝くような声、そしてドラッグとアルコールへの強い欲求だけだった。ティーンエイジャーだった彼女は日常的にいじめを受けていた地元のテキサス州ポートアーサーを出て、ヒッピー文化が成長し始めていた頃のサンフランシスコに移り住んだ。彼女はビック・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーとしてモントレー・ポップ・フェスティバルで華々しいパフォーマンスを見せスターになったが、自分のやりたいことを追求するために間もなくこのバンドを離れた。

彼女は新しいバンドメンバーを集め、すぐにファースト・ソロ・アルバム『コズミック・ブルースを歌う』を完成させた。1970年、同窓会での失敗が取り沙汰されたり、21歳の麻薬の売人との関係が始まった夏が終わって、次作の制作中だった彼女はハリウッドのランドマーク・モーター・ホテルの105号室でヘロインのオーバードーズで亡くなった。ジミ・ヘンドリックスの死からほんの2週間後のことであった。彼女はその制作を完了することはできなかったが「ミー・アンド・ボビー・マギー」(彼女の1位を獲得した唯一のシングル)や「ベンツが欲しい」(彼女が最後にレコーディングした曲)が収録された『パール』が彼女の死後にリリースされ、ジャンルの壁を超える大きな成功を収めた。

「彼女は何も我慢しなかった。口を開けばいつも危ないところを渡っていた。彼女はあまりにも早く燃え尽きてしまったとても激しくとても美しい輝く光だった」と人生で初めて買ったアルバムが『パール』だったというローザンヌ・キャッシュは語っている。

Translated by Takayuki Matsumoto

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