早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

ジョン・ボーナム
Michael Ochs Archives/Getty
1980年没 享年32歳


レッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナムはキース・ムーンと同じ、ドラムも生き方も頭で考えずに気ままにワイルドに、という哲学を持っていた。レッド・ツェッペリンで1970年代を通して大きな成功を手にした彼はパーティ三昧で、存在するほぼすべての違法薬物を使いつくしたが、それがもたらす恐ろしい結果にも向き合わなければならなかった。運命は1980年9月25日にやってきた。ツェッペリンがアメリカ・ツアーに向けて準備をしていた頃であったが、彼は24時間の間に40杯ほどのウォッカのショットを飲んだのだ。彼は翌朝、ベッドで死体となって発見された。

「ジョンはすばらしいテクニックを持っていただけでなく、それを活かす想像力も持っていた。彼が考えた『グッド・タイムズ・バッド・タイムズ』のパターンは今でもドラマーたちを困らせている。彼以外にそんなことができるやつはいない。彼以外にあんな想像力をもっているやつは誰もいなかった」とジミー・ペイジは2007年にローリングストーン誌に語っている。

ジョン・レノン

Keystone/Getty
1980年没 享年40歳


妻のヨーコ・オノと生まれたばかりの息子ショーンにほぼすべてのエネルギーを費やすために1970年代後半に活動休止してから5年が経ち、1980年後半、ついにビートルズの元メンバーである彼は表舞台に戻る準備が整った。アルコールも絶ち、新しいアルバム『ダブル・ファンタジー』を世に出すのを待ちきれずにいた。「70年代にはうんざりだろ?俺たちは今ここにいる。80年代を最高のものにしよう。どうなるかは俺たち次第なんだから」と彼は語っていた。

オノとの共作の2枚組アルバム『ダブル・ファンタジー』は11月17日にリリースされ、9年前の『イマジン』以来の最高の評価を得た。1曲目の「スターティング・オーヴァー」は彼の将来への楽観的な思考を反映していた。12月8日は1日中、ローカル・ラジオに出演したり、ニューヨークの自宅マンションでローリングストーン誌の表紙撮影のためにヌードになったり、オノの曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のリミックスのためにレコード・プラント・スタジオに行ったりして過ごしていた。家に着くとファンであるマーク・デイヴィッド・チャップマンに出くわし、至近距離から銃で5発撃たれ、病院で彼の死亡が確認された。

そのニュースはハワード・コーセルの『マンデー・ナイト・フットボール』で発表され、彼の死を悼む人々が現場を訪れ、悲しみを共有し、平和の歌を歌い、そのおぞましい悲劇を理解しようとした。「ジョン・レノンは本当に重大な存在だった。幼い頃にビートルズに出ているのを見ていたけど、彼らは芸能界的な耳触りのいいことだけでなく本当に意味のあることも言う初めてのアーティストだった。彼は私の世代のすばらしいお手本だったよ」とトム・ペリーは2000年にローリングストーン誌に語っている。

カレン・カーペンター

David Warner Ellis/Redferns
1983年没 享年32歳


カレン・カーペンターの突然の死の後、その命を奪った当時誤解されていた拒食症という病と、彼女と彼女の兄がカーペンターズとして1970年から生み出してきたその非常にポップな音楽に対しての世間の評価が低かったせいで、彼女自身もあまり評価されることはなかった。多くが「イエスタデイ・ワンス・モア」や「遙かなる影」、「雨の日と月曜日は」などのヒット曲を感傷的でローレンス・ウェルクのような古臭いものだとしてはねつけ、弱々しくやせ細ったカーペンターの演奏に不安を感じるものもいた。彼女は死後に、摂食障害を全国規模の問題として提起することとなった初の有名人であった。彼女の、兄と母のアグネスとの複雑な関係性や、自身をうまくコントロールできなかったことは死後も広く追求され続けることとなったが、彼女の並外れた声とカーペンターズの曲が少しずつ再評価され称賛を受けるようになって、ついに彼女は名誉を挽回した。今では手に入れることが不可能なトッド・ヘインズのドキュメンタリー『スーパースター:ザ・カーペンターズ・ストーリー』が1988年に公開されるとアンダーグラウンドの名作となり、ソニック・ユースのキム・ゴードンは1990年に彼女に捧げる曲「テュニック」を作った。「私はカレン・カーペンターが天国でドラムを叩いていて、幸せにいることを願っていた」とゴードンは1997年にローリングストーン誌に語っている。同様にエルトン・ジョンは彼女を「僕たちの人生の中で最もすばらしい声の持ち主の1人」と言い、マドンナは「完全に彼女のハーモニーのセンスに影響を受けているわ」と公言している。晩年、彼女はその美しくも派手すぎない透き通った声で新たな自分の道へと進もうとしていた。1979年のフィル・ラモーンによるプロデュースのソロ・アルバムは、1996年までリリースされなかったが、ロックとディスコ調のタイトな曲でセックスと自由を歌っている。「それは始まりだったんだ。彼女がエラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンだと言うつもりはないがあんな声だったら何だってできただろう」とラモーンはニューヨーク・タイムズ紙に語っている。


マーヴィン・ゲイ

Rob Verhorst/Redferns
1984年没 享年44歳


ポピュラー音楽の中で最も情熱的なシンガーであるゲイは「エイント・ザット・ペキュリアー」や「ユアー・オール・アイ・ニード」、不朽の名曲「悲しいうわさ」のような、キャッチーで心を打つシングル曲を次々と出し、あっという間に60年代のポップ・チャートを駆け上がり、ヒット・メーカーとしての地位を築いた。しかし、1971年、彼はソウル・ミュージック版『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を作ろうと自らと深く向き合った。それが、ベトナム戦争が激しさを増す中、慈悲の心や愛に訴えかけるために慎重に作り上げた『ホワッツ・ゴーイン・オン』である。「『ホワッツ・ゴーイン・オン』は俺が知る限り最も重みのある音楽的表現だ。決して時代遅れになることはない。マーヴィンがこのアルバムを作っている時に彼の家に行ったことを今でも覚えているよ。『スモーク、このアルバムは神によって作られている。俺はそのための神の道具にすぎないんだ』と彼は言っていた」とスモーキー・ロビンソンは以前語っている。数年後、彼はよりセクシーで一般的なわかりやすい方向へと進んでいき、「レッツ・ゲット・イット・オン」や「黒い夜」(論争となったロビン・シックの「ブラード・ラインズ〜今夜はヘイ・ヘイ・ヘイ♪」の“フィール”に影響を与えた曲)で1位を獲得した。1982年の「セクシャル・ヒーリング」は1位を逃したが3位に留まった。しかし、彼の私生活は70年代の終わりにかけて崩れていった。モータウンの創始者ベリーの姉である妻のアンナ・ゴーディと離婚し、破産を申し立て、ついには国税庁から逃れるためにヨーロッパに移り住んだ。また、彼は鬱とコカイン中毒とも戦っており、彼は亡くなる年には何度も自殺未遂を図った。そうであったにもかかわらず、彼は自らの手で亡くなったわけではなかった。マーヴィンの45歳の誕生日の前日に牧師であった父に至近距離で撃たれたのである。彼は今も影響力を持ち続けるアーティストであると考えられており、ディアンジェロやアッシャーなど世代を超えるシンガーたちに影響を与えている。

Translated by Takayuki Matsumoto

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