早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

エイミー・ワインハウス

Dan Kitwood/Getty
2011年没 享年27歳


ワインハウスは世の中に出ると旋風を巻き起こした。2006年の2枚目のアルバム『バック・トゥ・ブラック』はマーク・ロンソンによるプロデュースのスモーキーなレトロ・ソウルを人々に届け世界的な成功を収め、世界一のディーヴァとなった。その成功が彼女のアルコールとドラッグへの依存を悪化させることとなり、それが最後のアルバムとなったが、それによって彼女の最も売れた曲「リハブ」(リハビリ施設での体験を歌った曲)は余計に皮肉で悲痛なものとなってしまった。後にオスカー賞を獲得したドキュメンタリー映画『エイミー』で見られるように彼女のシンデレラ・ストーリーはゴシップに追われる悪夢へと変わり、2011年に27歳でアルコール中毒で亡くなるまで彼女は世間を騒がせ続けた。ワインハウスは今もその実直な歌詞と歌声で多くのモダン・ソウル・シンガーに影響を与え続けている。「私の成功の90%は彼女のおかげだわ」とアデルは言う。

ホイットニー・ヒューストン

Frederic REGLAIN/Gamma-Rapho via Getty
2012年没 享年48歳


ゴスペル歌手シシー・ヒューストンの娘であり、ディオンヌ・ワーウィックのいとこであり、アレサ・フランクリンの代子であるヒューストンは“1世代に1人”レベルのその恵まれた声でジャンルを超える最高のアーティストとなった。「いとこのディオンヌのおかげでバート・バカラックの見事なメロディをすべて理解していたが、彼女は若くてマイケル・ジャクソンやプリンスやマドンナの時代の人だから彼女の中にはソウルもあったんだ。ああいうリズムがね。彼女はその両方を持っていて、しかも、彼女はすごくゴージャスだ。彼女にノーなんて言えないよ」とヒューストンのプロデューサーの1人、ナラダ・マイケル・ウォルデンは2012年にローリングストーン誌に語っている。彼女は(『グレイテスト・ラブ・オブ・オール』、『オールウェイズ・ラヴ・ユー』を含む)11曲のナンバー1シングルを生み、2億万枚以上のアルバムを売り上げ、7つのグラミー賞を獲得し、マライア・キャリーやアデル、アリアナ・グランデなど数々の実力派シンガーに影響を与えた。

1992年の『ボディガード』のサウンドトラックでの商業的成功のピークの後、ヒューストンはそのエネルギーに満ち溢れた態度を保てなくなり始めていた。ボビー・ブラウンとの騒々しい結婚生活やドラッグとアルコールへの深刻な依存は、搾取的なリアリティ番組への出演に繋がり、彼女はインタビューをかき乱したり(2002年のダイアン・ソーヤーへのコメント「コカインなんてバカげてる」)、傷1つ無かった自分の楽器をぞんざいに扱ったりした。2012年2月のグラミー賞の前夜、ザ・ビバリー・ヒルトンの部屋のバスタブで彼女は遺体となって発見された。検死により彼女の死には事件性はなく、心臓発作とコカインの使用があったことが認められ、また体内からは複数の薬物が検出された(悲劇的なことに娘のボビー・クリスティーナ・ブラウンも3年後、22歳で奇妙にも同じような状況で亡くなった)。「彼女は究極のレジェンドだったわ。誠実で優しくて。彼女の声には欠点がなくて、力強くもあるけど癒やしもある。ソウルフルでもありクラシックでもある。彼女のヴィブラート、抑揚、コントロール。すべてのシンガーと同じように私もずっと彼女みたいになりたかったわ」とビヨンセは彼女の死後、エッセンス誌に語っている。

プリンス

Michael Ochs Archives/Getty
2016年没 享年57歳


これからレコード契約をしようというアーティストの中でも最も並外れた才能の持っていたアーティストの1人であったプリンスは、彼が19歳の時にリリースされたデビュー・アルバム『フォー・ユー』のすべての曲のプロデュース、アレンジ、作曲、演奏をこなし、キャリアを通じて驚くほどに楽々と異なる楽器を演奏した。彼はその刺激的でセクシーなイメージと「ウォナ・ビー・ユア・ラヴァー」や「アップタウン」、「戦慄の貴公子」のようなポップス、R&B、ダンスのチャートにまたがるシングルのおかげで70年代後半、80年代前半のヒット・メーカーとなった。異なる人種と性別で構成されたバンド、ザ・レボリューションを従えた『1999』で一般層にアピールする準備が整い、映画『パープル・レイン』と「レッツ・ゴー・クレイジー」や「ビートに抱かれて」、壮大なタイトルトラックなどのヒット曲を収録しダイヤモンド・ディスク認定を受けたそのサウンドトラックで彼は大スターとなった。「『ビートに抱かれて』は過去25年で最も革命的な曲の1つだ。ベース・ラインがない曲だ。というよりほとんど音楽が何もない。それでも大きな影響力を持っていた。『ビートに抱かれて』はザ・ネプチューンズの1音だけのファンク・サウンドの先駆けでもあり、ドラムマシーンとほんの少しのメロディでできた曲の最高傑作だ」とクエストラヴは以前語っている。

次々とヒット・アルバムをリリースし彼の伝説は成長を続けたが、90年代に入り契約内容に不満を感じた彼はワーナー・ブラザーズと対立するようになり、その成長は止まった。彼は自らの顔に「奴隷」と書き、名前を記号に変え、インディペンデント・アーティストになるまで争い続け、ダブルプラチナ・ディスク認定の1996年のアルバム『イマンシペイション』で自らの正当性を主張した。彼は2010年代に入ってもトップ10に入るアルバムを出し続けていたが、実験的にTwitterで曲をリリースしたり、彼がやりたい時にやりたいようにツアーしたりした。そんな中、彼は股関節置換手術を受けたと伝えられており、おそらくその後の治療がきっかけで密かに鎮痛剤に依存するようになったようだ。そして、2016年4月、合成オピオイドのフェンタニルのオーバードーズによって彼は亡くなった。彼の死の翌週、ビルボードが『ヴェリー・ベスト・オブ・プリンス』と『パープル・レイン』がアルバム・チャートの1位、2位を獲得したことを伝え、彼の影響力の大きさを証明した。

Translated by Takayuki Matsumoto

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