サマソニ生みの親が語る、静岡愛と人生の話「誰にでもチャンスはある」

レコードとラジオと雑誌が学校であり教科書だった

―僕も小学校の頃、呉服町という商店街にあるおもちゃ屋さんに通い詰めてたんですけど、店員さんが皆サーファーだったんです。彼らがハワイに波乗りに行った時、現地のラジオをカセットテープに録音して、それを持って帰ってきて店内で流してたんですよね。そこでビースティ・ボーイズやスティングの曲を知って、なんだこのカッコいい曲は!と。


清水:海外の雰囲気を考えると当時はFEN(極東放送網)だよね。ファー・イースト・ネットワークっていうラジオで、周波数をぎりぎり合わせてノイズ混じりに聴く。ナビゲーターも外国人だし、かかる音楽も洋楽だから中学生ぐらいの頃から必死に聴き出して。

―静岡ってラジオの電波がなかなか入らなくないですか? 東京のラジオ局を聴きたいなと思って、短波放送が入るラジオを祖母に買ってもらったんですけど全然入らなくて。

清水:そう。だからFMだよね。NHK-FMの『サウンドストリート』とかね。当時は『サウンドストリート』に出ると大御所っていう。月曜日が佐野元春さん、火曜日が教授(坂本龍一)だったかな。金曜は渋谷(陽一)さん。山下達郎さんが木曜日か。今思うと、高校時代の自分が必死になって聴いていた雲の上のようなナビゲーターの方たちと仕事をしたり、渋谷さんに至っては普通に携帯に電話をかけてきたりね(笑)。不思議だけどね。面白いよ。

―当時の焼津にはライブハウスってあったんですか?

清水:皆無だね。何だろう、ライブってものに対しては静岡にいた時はあまり意識していなかったんだよね。まずは聴く、そして雑誌を読む。だからひたすら内にこもるような世界だよね。貸しレコード屋に毎日通って、いろいろと引っ掻き回して1枚借りてダビングするようなことや、さっき言ったFMチェック。FM雑誌っていうのが昔はあったじゃない? 流れる曲が載っているわけよ。どんな曲がかかるのかチェックして、ステレオにカセットを入れておいてダビングしたいと思った曲が流れたらすぐに録音できるように待っていたり。あとは『ミュージックライフ』や『ロッキング・オン』といった雑誌を見ることが音楽との関わりだったよね。だから東京に近いヤツらから、当時初来日したクイーンを観たとか 「ボブ・マーリーがさ」っていう話を後から聞くと、まぁ羨ましかったね。

―音楽に関連した仕事がしたいと高校生ぐらいから思い始めていたんですか?

清水:それしかやりたい夢がなかったんだよね。時代もそうだし、今みたいにフリーターが許されるような感じはなかった。でも俺はどちらかと言うと、何も先を決めないタイプで。高3の冬休みでまだ進路を決めてなかったんだよね。大学に行くでもなく、どう考えてもその時に入れるいい大学はなかった。高校で勉強なんて一切してなかったから。レコードとラジオと雑誌が学校であり教科書だったからなー。かと言って地元で職を探して働く気もさらさらなかった。東京に出ないといけないとは考えてはいたけど、東京に出るきっかけというか理由がない。そこで当時付き合っていた女の子が見かねて、「こんなのあるよ」って東京の音楽の専門学校のパンフを見せてくれて。おっ、これを理由に東京に出ようと親父に専門学校に行きたいんだと言って。末っ子だからある程度好き勝手やらせようという雰囲気もあったのと、ようやく自分でやりたいことがあると言ったのもあって「行けよ」と。「お前は焼津じゃなくて世界中を駆け回るような人間になってもらいたいから。大学出したつもりで4年は待ってやる」って言ってくれたんだよね。

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