現場スタッフから見たフジロック黎明期の衝撃

開催を発表してすぐに3万枚のチケットが売り切れてしまった

ー当時はインターネットもあまり普及していなかったら、初年度のフジロックの惨状が口伝えで広まってやがて伝説化したと思うんですね。今の若い世代、特にアーティストにとってもフジロックは特別な存在になっていると実感することが多いんですけど、彼らにとっては初年度のフジロックの話って1969年のウッドストック・フェスティバルくらいの感覚だと思うんですよ。

小川 なるほどね。

ー小川さんと鯉沼さんは初年度からお仕事の内容的にはほとんど変わってないんですか?

鯉沼 ほぼ変わってないかな。

小川 うん、鯉沼は運営面で。

鯉沼 あのころは兵隊でしたよ。

ー兵隊ってどういうニュアンスですか?(笑)。

小川 仕切ってはなかったということだよね。

鯉沼 そう、決定権とかはそれほどなくて。

小川 僕はメインステージの担当でした。要はステージの進行担当ですよね。音響、照明、舞台監督がいて、そのスタッフたちと当日の進行をまとめる役割です。あとは楽屋周りとかアーティストのケアもして。

ーブッキングに関しては?

小川 当時のブッキングは日高を中心にみんなでいろんな意見を出して決めていましたね。

ーお二人にとって初年度はどういう記憶として残っていますか?

鯉沼 当時はたぶんフェスに対して「こういうものなんだ!」って理解しているのは日高さんだけだったと思うんですね。

小川 そうだね。

鯉沼 あとのスタッフはとにかく馬車馬のように動いていたという感じなのかな。

小川 今だから言えることだけど、取り組み方がちょっと甘かったと思いますよね。どうやってお客さんを運ぶのかというところを詰めてなかった。3万人のお客さんに対するリアリティがないというか。開催を発表してすぐに3万枚のチケットが売り切れちゃったんですよ。で、駐車場とかそのあたりのことも考えてなかったですからね。とりあえずチケットを売ったあとに駐車券を売り出して。

鯉沼 チケット発売後に「ここ(駐車スペース)は押さえた! あそこも押さえた!」ってね。

小川 そうそう。

ーなんとかしてお客さんは来るものだと思ってたということですか?

小川 ねえ?(笑)。

ーあはははは!

小川 そんな程度だったんですよ。

鯉沼 「河口湖駅からシャトルバスを会場まで走らせばいいんじゃない? あとは近隣の土地を借りて駐車場を作ればいいか」という。

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