マンソン・ファミリーによる殺人事件、50年を経て明らかになった新事実

オニールの著作で注目すべきふたつ目の点は、従来のマンソン本の主張と一線を画す。著書『Helter Skelter』の内容にも一理あるかもしれないが、オニールはいくつかの疑問を持ち続けていた。1970年代初頭に行われたインタヴューでブリオシは、殺人事件を起こすことで世界的に人種闘争が広がるとはマンソン自身も考えていなかったと思う、と認めている。「マンソンが殺人を命じたとしても、ビートルズの楽曲『ヘルター・スケルター』が動機ではなかっただろう。ではなぜ彼はファミリーのメンバーをあの家へ送り込んだのか?」とオニールは疑問を投げかけている。「なぜラビアンカ夫妻だったのか? なぜテートの家だったのか? なぜブリオシは裁判で真実を証言しなかったのか?」

これらの疑問からオニールは、「陰謀説」を唱えた。ファミリーのメンバーはしょっちゅう警察と揉め事を起こしていたにもかかわらず、なぜ自由に行動できたのか? 「当局はマンソン・ファミリーに特権を与えていた」とオニールは書いている。「ファミリーの成り立ちをよく調べてみると、そこかしこに彼らが外部から何らかの助けを得ていた証拠が見られた。」

オニールはまず、マンソンが出所してからわずか数ヶ月後、サマー・オブ・ラヴ真っ盛りの1967年半ばのサンフランシスコを辿ってみた。すると彼は、マンソンの保護観察官だったロジャー・スミスに行き着いた。当時スミスは、『ザ・サンフランシスコ・プロジェクト』という実験的な保護観察プログラムの研究に参加していた。スミスがマンソンの保護観察を担当したというのは、著書『Chaos』でオニールが初めて明らかにした事実だ。プロジェクトでは、保護観察官の担当する件数と非観察者の再犯率との関係を研究しており、各保護観察官はそれぞれ違った人数を割り当てられた。当初スミスは約40人を担当していたが、年末までにわずかひとりに絞られた。それがチャールズ・マンソンだった。

スミスはベテラン保護観察官ではなかった。彼はバークレー大学犯罪学部の博士号取得予定者で、ドラッグの使用と犯罪者集団による暴力との関連性を研究していた。偶然にもオニールもその道に通じていた。「1967年当時のスミスは、犯罪者集団、集団行動、暴力、ドラッグのエキスパートとされていた」とオニールは書いている。「彼が保護観察を担当した唯一の人間だったマンソンは、暴力とドラッグを使って犯罪者集団の集団行動をコントロールしていたのだろう。」

1967年夏のもうひとつの出会いに、オニールはさらに不吉さを感じた。その年の6月、ドクター・デイヴィッド・スミスが中心となり、急速に広まるヒッピー人口に安価な医療を提供する場としてヘイト・アシュベリー・フリー・メディカル・クリニック(HAFMC)が開業した。マンソンと信者の女性らもクリニックの常連だったことは周知の事実だった(自由恋愛には、治療を要する性感染症が伴うということだ)。ブリオシ自身も、この時期の出来事について著書の中で少し触れている。しかし同時代を体験し、ヒッピー集団ザ・ディガーズを創設したエメット・グローガンは回顧録の中で、施設の運営に何か不気味さを感じたと述べている。「患者が治療費を請求されないからといって、決して“無料クリニック”とはいえなかった」とグローガンは書いている。「患者はむしろ“研究対象”とされ、施設は自分たちに都合のよい超革新的な医療を施すために利用されていた。」

オニールはさらに、マンソン、ブリオシに次ぐ第3の主役と呼ぶジョリー・ウエストを登場させる。ウエストは前出の2人のスミスと同じくドラッグに魅せられ、1960年代半ばにサンフランシスコへやって来たドラッグ研究家だった。2人のスミスとは違い、ウエストの専門はマインドコントロール研究で、数十年に渡り政府機関でも働いていた。彼は、CIAによる極秘プロジェクトMKウルトラ計画にも関わっていたという。

ウエストは政府からの資金援助を受け、サンフランシスコでヘイト・アシュベリー・プロジェクトと名付けた仮設宿泊所を立ち上げた。宿泊所では、彼の教え子である複数の大学院生にヒッピーの格好をさせて働かせた。彼は前出のHAFMCとも密接な関係にあり、HAFMC内にオフィスまで構えていたという。オニールとのインタヴューでHAFMCの創設者デイヴィッド・スミスは、ウエストとの協力関係を認めている。「我々は彼の研究に協力した」とスミスは証言した。「彼らは我々のクリニックにやって来て、患者の若者らに聞き取り調査を実施した。驚くべきことに、白人中流階級の多くの若者が違法ドラッグを使用していたのだ。」

マンソンと米国の最高機密機関のプロジェクトとの間に重要な関係があるかどうかは、オニールが著書やインタヴューの中でも強調している通り、証明されている訳ではない。しかしマンソンが、現在では違法とされている人体実験を実質的に行なっていたのは事実だ。彼はメンバーの経験や理解力だけでなく記憶までも書き換える目的でLSDを投与し、自分の意のままに操ろうとした。1970年、デイヴィッド・スミスは、Journal of Psychedelic Drugs誌に『The Group Marriage Commune: A Case Study(集団結婚コミューンの事例研究)』と題した研究論文を発表している。研究対象となったグループ名は伏せられていたものの、マンソン・ファミリーであることは間違いない。

20年間に渡る調査研究を経てオニールは著書『Chaos』を出版したが、彼の仕事に終わりはない。ミレニアル世代の教え子の力を借りて彼はFacebook上にデータベースを作成し、オリジナルのドキュメント類やニュース記事の切り抜きを他のメイソン研究家らと共有している。最終的な結論には至らなかったものの、機は熟していた。オニールはこの研究で激しく消耗し(実際に彼は他人との関係をこじらせ、アルコールに手を出し、破産し、訴えられ、限界に達していたことを告白している)、マンソンがじわじわと間接的に彼を殺す前に何かしらの成果を世に出しておく必要があったのだ。

サンプル
拘留場所から法廷へと徒歩で移動するテート=ラビアンカ殺害事件の被告となった3人の女性(1970年8月6日)。左からレズリー・ヴァン・ホートン、スーザン・アトキンス、パトリシア・クレンウィンケル。

しかしなぜ今頃になって、マンソンのストーリーに注目させようとしているのか? 「私はこの問題に終止符を打ちたいのだ」とオニールは言う。彼は、警察当局がマンソンの関わった可能性のある過去の事件を再検証して欲しいのだという。著書『Helter Skelter』の中で目撃者として登場するフィリップ・ホートは、ロシアンルーレットで遊んでいる最中に自ら引き金を引いて死亡したとされるが、6つの薬室全てに銃弾が入っていた。また当時23歳だったイタリア人移民のヴェロ・テネレッリは、ファミリーと合流した数日後に不審な死を遂げた。当局は自殺と判断したが、彼の家族もオニールも信じていない。仮に上層部の意向により捜査が妨げられたのだとすれば、政府が関与したということだろうか? テート=ラビアンカ殺人事件からマンソン・ファミリーが裁判にかけられるまでの間に、いったい何人が死亡しただろう?

オニールの著書が出版されるまでの間、彼は批判も覚悟していた。陰謀論者呼ばわりされ、答えきれない多くの質問を浴びせられると思っていた。また、訴訟を恐れたオニールが、ヴィンセント・ブリオシがこの世を去るまで待っていたのではないかと疑われるのも心配していた(ブリオシは2015年に死亡している)。オニールは元検事のブリオシに取材して対立し、敵意を抱かれるほど怒らせていたからだ。

「ブリオシが死ぬまで出版を控えていたなどと決して思われたくなかった」とオニールは言う。「全く事実ではない。そんな事を言われると本当にがっかりする。私は彼に生きていて欲しかった。そして最後まで責任を取って欲しいと思っていた。」

Translated by Smokva Tokyo

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