『ジョーカー』映画評「あざ笑うことはできても、冗談で笑い飛ばすことは決してできない」

『ジョーカー』を通して問われる「正義」と「悪」

フィリップス監督は『ロード・トリップ』『アダルト♂スクール』『ハング・オーバー!』三部作といったおバカ映画で有名だが、アメリカン・ニューシネマの影響をフル活用して、自分の持ち駒にダークな要素を加えた。だが物語が進行するにつれ、彼らしい鋭いスタイルが顔をのぞかせる。フェニックスにとっては、アーサーの精神を蝕む慢性的な鬱やトゥレット障害のような激発をジョーカーの狂気じみた笑いとうまく組み合わせることが最大の挑戦だっただろう。どこまでが現実でどこまでがアーサーの脳内世界なのか、判断は観客にゆだねられる。思わず見入ってしまうこのキャラクターと一緒になってあざ笑うことはできても、冗談で笑い飛ばすことは決してできない。

当然のごとく、アーサーがおどけた犯罪のプリンスへ転身するまでの経緯は暴力的だ。身をやつした哀れな男(フェニックスは役作りのために52ポンド=約23キロ減量したらしい)は、はじめは街のチンピラから、のちに地下鉄でウォール街のオオカミたちから容赦なく虐げられる。彼らにとってこの道化、このマザコン野郎は、ケツを蹴り飛ばしてほしがっている恰好の獲物なのだ。そして胸糞悪くなるようなR指定級の大殺戮により、我らがメイク男はタブロイド紙の人気者となる。それが引き金となって、ピエロの仮面をつけた集団がデモ行進を起こし、富裕層たちに立ち向かう。富裕層の代表格は市長候補のトーマス・ウェイン(ブレット・カラン)。ブルース・ウェインの父親だ。

バットマンとの比較、とくにアーサーの母親につながっていく場面では思わず顔をしかめるだろう。そこで一瞬勢いがそがれるが、その後のシーンでフィリップス監督はなんとか持ち直す。ただしこのシーンに関しては、ファンはこの先長いこと議論を戦わせることになるだろう。『マレー・フランクリン・ショー』に出演したフレックは、司会者から辱められる。この悪魔に同情することは、自警団を正当化することになるのだろうか? それともフェニックスとフィリップスは、今日の社会に悲しく鳴り響く明白な事実、すなわち犠牲者が加害者へと変貌する経緯をさらに掘り下げようとしているのか? エンターテインメントとしても挑発的作品としても、『ジョーカー』はとにかく桁外れだ。



Translated by Akiko Kato

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