U2『ヨシュア・トゥリー』の知られざる10の真実

『ヨシュア・トゥリー』30周年記念ツアーで12月4日、5日に13年ぶりに来日するU2

いよいよ12月4日、5日に13年ぶりに来日するU2。今回は『ヨシュア・トゥリー』30周年記念ツアーということで、バンドのその後を決定づけた1987年の名盤について知られざる10の真実を紹介する。

アルバム『ヨシュア・トゥリー』で描かれているストーリーの核心は移民物語だ。つまり、4人のアイルランドの男がアメリカを発見する旅に出発し、この4人が彼の地で発見したことが彼らに活気とともに激しい怒りも与えた。U2が1987年に発表したアルバム『ヨシュア・トゥリー』収録曲の歌詞は、その後どんどん大きくなっていく彼らの社会的良心を声高に語る一方で、この作品の音楽ルーツがブルース、ゴスペル、フォークに深く根ざしており、そこにアウトサイダー的なエッジが加えられている。ボノ、ジ・エッジ、アダム・クレイトン、ラリー・マレン・ジュニアの4人は、見知らぬ土地にいるストレンジャーだった。そして、この異国人という感覚がこの作品の最初から最後まで貫かれている。

「あの時期のサウンド以外の何物でもない」と、ジ・エッジがイギリスのドキュメンタリー番組「クラシック・アルバムス」の1999年に放送された回で語っていた。「あの作品には80年代的なメンタリティーは皆無だ。それとは全く違う場所から生まれたものだった。(中略)あのアルバムの制作中、その時期の音楽ビジネスの状況と自分たちは全く関係ないと思っていたし、両者の間には大きな隔たりがあると感じていた」と。

「あの作品は当時の音楽の流れとは完全に足並みがずれていた。あれは狂気だった。それこそ恍惚とした音楽とでも言ったらいいかもしれない」と、ボノがジ・エッジに同調した。そのスピリットはリスナーにしっかりと伝わった。アルバム『ヨシュア・トゥリー』は20カ国以上で音楽チャートの1位を獲得したのだ。そして、「アイ・スティル・ハヴント・ファウンド・ホワット・アイム・ルッキング・フォー(終わりなき旅)」、「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネーム(約束の地)」、「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」といったヒットシングルを次々と生み出した。革新的な技術が使用され、政治的な立場も表明され、スピリット面に意識が向けられ、極めてラジオ・フレンドリーな楽曲が詰まったこの作品が、比類なきライブバンドという評判の上に積み重なって、U2をモダンロックの頂点へと押し上げたのである。

あれから30年を経た今でも、『ヨシュア・トゥリー』はU2にとって最も売れているアルバムで、ファンにとってU2の作品のクオリティを判断する基準となっている。『ヨシュア・トゥリー』発売から30年を記念して、来週に迫ったヨシュア・トゥリー・ツアー来日講演に先立ち、このアルバムの知られざる10の真実を振り返ってみたい。

1. 初期のセッションはジョージ王朝風の屋敷で録音されたが、この屋敷はのちにアダム・クレイトンが購入した。

アルバム・タイトルとジャケット写真がアメリカの南西部をイメージさせ、ボノが書いた歌詞がエチオピア、南アフリカ、チリ、エル・サルバドルでの人権を踏みにじる残虐行為に対する憤怒を表現しているが、U2の世界観を十分に表した5枚目のスタジオ・アルバムの大半がレコーディングされたのは、ダブリン南部のラスファーナムにある2階建てのジョージ王朝風の屋敷で、ここからアダム・クレイトンが通っていた大学が見渡せた。ここは、その数ヶ月前にジ・エッジが当時の妻アイスリンと一緒に家を探していたときに内見した一軒だった。「この家は俺たち夫婦には合わないと思ったが、もしかしたらレコーディングのために貸してくれるかもしれないとも思った。この屋敷はデインズモートと呼ばれていた。俺たちはウィックロー山地の麓にあるこのジョージ王朝風の古くて大きな屋敷に機材を設置したんだが、ここはアダムが除籍になったことで有名なコロンバ大学まで800メートルの場所だったよ」と、ジ・エッジがバンドの自叙伝『U2 BY U2』の中で述べている。



このやり方はこれが最初ではなかった。前作、つまり1984年のアルバム『焔(ほのお)』は、アイルランドのミーズ州にあるスレイン城でそのほとんどを録音していたのである。デインズモートの方が無機質なスタジオよりも刺激的だと信じていた彼らは、この古い屋敷の中にフル装備のレコーディングスタジオを設置することにした。1986年1月には、ダイニングルームがコントロール室に改装され、テープマシンとミキシングデスクが置かれた。巨大な観音開きの扉が取り外され、代わりにガラス製スクリーンが取り付けられて優雅な応接室が見えるようになっていた。この応接室はライヴルームとして使用された。堅木張りの床で吹き抜けというこの空間は、巨大な音響を生み出した。「『ヨシュア・トゥリー』の大きなドラム・サウンドはあの空間のアンビエント音だ」と、レコーディング終了後にこの屋敷の主となったクレイトンが言った(すかさず「きっと隣りの家に住む上流階級の連中の睡眠の邪魔をするために買ったのだと思うよ。アダムは絶対に認めないけどな」と、ジ・エッジが冗談を放った)。

U2はウィンドミル・レーンやSTSスタジオなどの普通のスタジオを使用することもあったが、バックグラウンド・トラックの多くがデインズモートでライブ録音さており、その後にダブリン南部のモンスクタウンのメルビーチ沿いにある家で完成させた。この家はジ・エッジが新しく購入した家だった。「この家で『マザーズ・オブ・ザ・ディサピアード』などの楽曲や、最終的に『ブリット・ザ・ブルー・スカイ』になったマテリアルが生まれた。この作品の大半はエッジの家で作られたはずだ。確かにデインズモートでのセッションで録音したものが、作品のトーンを決めたバックボーンになっているとはいえ、ドラムのほとんどをこの家で完成させたね」と、2007年にホットプレス誌の取材で共同プロデューサーのダニエル・ラノアが語っていた。

Translated by Miki Nakayama

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