U2『ヨシュア・トゥリー』の知られざる10の真実

2. 「ワン・トゥリー・ヒル」はバンドのローディーとその友人の死にインスパイアされた

1984年8月にアンフォゲッタブル・ファイア・ツアーの一環としてU2がニュージーランドのオークランドに到着したとき、ボノは13時間の時差のせいで眠れなかった。そんなボノに地元の制作スタッフたちが深夜の市内観光ツアーを提供してくれた。その中にグレッグ・キャロルというマオリ族の男がいて、オークランドを拠点にしている複数のバンドと仕事をしていた経歴が買われて、U2の制作チームのマネージャー、スティーヴ・アイレデールが雇うことにした男だった。

即興の観光ツアーで彼らはオークランドで最も高い火山の山頂へとやってきた。「彼らがワン・トゥリー・ヒルと呼ばれる場所に俺を連れて行ってくれたんだ。ここはたった1本の木しかない山頂で、荒涼とした日本画のような感じだった。そこから火山の噴火口の側に広がるオークランドの町を眺めた。その光景は今でも非常に鮮明に覚えている。たぶん、それが自分の自由について何らかの意味をもたらしたせいだと思う」と、『U2 BY U2』でボノが当時を思い出して語っている。ここはマウンガキエキエとも呼ばれている場所で、マオリ族にとっては神聖な場所だ。

このときのツアーでキャロルはバンドメンバーに強烈な印象を残し、その後すぐに、残りの10ヵ月間のワールドツアーでの雑用係兼舞台係としてバンドから仕事を依頼された。翌年7月に全ツアーが終わると、キャロルはダブリンでU2のアシスタントとしての正規の職が与えられ、特にボノとその妻アリ・ヒューソンと親しくなった。

1986年7月3日、『ヨシュア・トゥリー』のセッションが始まる直前のことだった。この日、キャロルが雨がそぼ降るダブリンの街中をバイクで走っていると、一台の車が彼の目の前を横切った。ブレーキをかける間もなく26歳のキャロルはこの車の側面に激突して即死した。この悲報はバンドと関係者を激震させた。1987年にボノがローリングストーン誌に「あれは破滅的な打撃だった。あれは俺が頼んだことだったから。グレッグは俺のバイクを自宅に移動している最中だったのさ」と、打ちひしがれた様子で教えてくれた。
故郷に埋葬するためにキャロルの遺体をニュージランドに輸送するとき、ボノ、アリ・ヒューソン、ラリー・マレン・ジュニア、U2の関係者たちも一緒に付き添った。葬儀ではマオリ族の伝統に則った儀式が行われ、その最中にボノが他界した友のために「レット・イット・ビー」と「ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア」を歌った。葬儀後にボノはキャロルと初めて会った夜のことを、街中を見渡せる最高の山頂に行ったことをみんなの前で語ったのである。悲しみにくれたボノはその気持ちを歌詞に書き留め、それが後に「ワン・トゥリー・ヒル」となる。

スタジオに戻ったあと、楽器トラックは共同プロデューサーのブライアン・イーノの指揮のもとで行われたジャム・セッションで、回数を重ねるうちに完成した。しかし、ボノのヴォーカル・トラック録りはワンテイクで終了したのだった。彼の中で生々しい感情が溢れ出して、それ以上歌うことができなかったのである。バンドの自叙伝の中でボノは、「あの出来事で『ヨシュア・トゥリー』のレコーディングは厳粛な雰囲気に包まれることになった。彼の死で空いてしまった穴を埋めるためには、本当に大きな詰め物が必要だった。俺たちは彼が大好きだったんだ」と述べている。そして、完成したアルバムはキャロルの思い出に捧げられた。

3. 「アイ・スティル・ハヴント・ファウンド・ホワット・アイム・ルッキング・フォー」はもともと全く異なる楽曲だった。

U2の楽曲の中で最も時代を超えて歌い継がれているアンセム的この曲のDNAは、初期のジャム・セッションで作ったデモにしっかりと組み込まれていた。この曲の仮タイトルは「The Weather Girls」のときもあったし、「Under the Weather」のときもあった。クレイトンの説明によると、この曲は「少しばかり単調なグルーヴ」だったらしい。一方、ジ・エッジは「レゲエバンドが『アイ・オブ・ザ・タイガー』を弾いている感じ」と、にべもない。この曲で生き残ったのはマレンの奇抜なドラムパートだけだった。「ラリーの叩いたビートがオリジナリティに溢れていた。私たちは常に曲の特徴となるようなビートを探すものなんだ。あのビートは間違いなくそんなビートだった。ラリーのあのタムタムは彼にしかできないプレイだし、彼以外の誰にも理解できないものだ」と、のちにラノアはホットプレス誌に語っている。

このドラム・トラックを土台として、このリズムに合わせた楽器トラックを新たに作り、その上に積み重ねていった。「まるで建物を建てているようだった。土台を作り、その上に壁や屋根を作り、最後に家具を入れるというように。私はこのプロセスを楽しんだよ」と、ラノアはテレビ番組「クラシック・アルバムス」のドキュメンタリーで話している。新しいメロディが徐々にはっきりと形を表すにつれて、ゴスペル音楽の要素が目立つようになってきた。これはバンドがそれまで一度も踏み入れたことのないジャンルだった。これについてラノアは次のように語っている。「私は昔からゴスペル音楽が大好きだったので、ボノにはその要素を使ってみることを勧めた。ゴスペルは当時のU2が取り入れるとは思えない音楽ジャンルだったが、これをやることで彼らにとっても新たな扉が少し開くことになった」と。

楽器トラックがほぼ完成したところで、ボノがライブルームにやってきて、ヴォーカル・メロディをあれこれ試しながら、その場で思いついた適当な歌詞を歌っていた。その様子を見ていたジ・エッジはボノのパフォーマンスに刺激されて、その朝に思い付いたフレーズを思い出したのである。これはボブ・ディランの「愚かな風」にインスパイアされたものだった(「頂上にたどり着く時、お前は底辺にいることに気づく」)。

『U2 BY U2』の中でジ・エッジはこう話している。「この曲がモヤの中から姿を表すのを聞いていたとき、ノートに書いたフレーズがあるのを思い出したんだ。その朝に思い付いた曲のタイトルに使えると思ったものがそれで、ボノの歌を聞きながら、そのフレーズを思い起こしていた。完璧に思い出せたので紙に書き留めて、歌っているボノにそのメモを渡したよ。俺たちの魂がつながっているって感じだったね」

「I still haven’t found what I’m looking for」というフレーズは、曲のタイトルでもあるし、歌詞の焦点とも言える部分でもある。「あのアルバムを作っていて、カミナリに打たれたように何かが閃いたのは数回しかなかったけど、『アイ・スティル・ハヴント・ファウンド・ホワット・アイム・ルッキング・フォー』の誕生はその数少ない一回だった」と、ジ・エッジが説明する。

Translated by Miki Nakayama

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