U2『ヨシュア・トゥリー』の知られざる10の真実

6. 「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」はプロトタイプのギターに救われた。

この作品で「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」として完成する前身のマテリアルは、アンフォゲッタブル・ツアーが終了した1985年にラリー・マレン・ジュニアの家にメンバーが集合したときから存在していた。しかし、どの側面から見ても初期のこのマテリアルはパッとせず、クレイトンに言わせると、この曲の核心部分は「コードが繰り返されるだけだったから、非常にありきたりだった」らしい。イーノとラノアのガイドに従って、彼らは『ヨシュア・トゥリー』のセッションでもこのマテリアルにあれこれ手を施して、無数のアレンジを考え出していた。しかし、ジ・エッジはそのすべてが「サイテー」だったと言う。

バンドがこの曲をスッパリ諦めようと考えていたとき、ジ・エッジにカナダ人ミュージシャンのマイケル・ブルックからプレゼントが届けられた。ブルックとジ・エッジは1985年の映画『Captive(原題)』でコラボレーションしていた。ジ・エッジがユニークなサウンドを好むと知っていたブルックは、「インフィニット・ギター」と名付けた自分で開発したギターのプロトタイプを贈ったのだ。このギターのボディにビルトインされたエレクトロニック・アンプ・システムを使うと、際限なく「無限の」サステインが得られる。「天才的な楽器だよ」とラノア。彼はブルックが作ったこのギターの2本目のプロトタイプを持っている。「これでフィードバックのループを作るんだよ。もちろん、あれ以降、このギターの大量生産が行われているけど、あの当時はまだ未開のギター領域だった」と説明した。

間違いなく素晴らしいギターなのだが、健康上のリスクも一緒に付いてきた。『U2 BY U2』でジ・エッジがこう述べている。「(ヨシュア・トゥリーの)セッション中に届けられたこのギターには、ギターの組み立てと接続方法についての複雑な指示書が同封されていた。1本でも配線を間違うと、かなりひどい電流が身体に流れるってね。このタイプのギアは最もベーシックな安全規則すらパスしない代物だったよ」

なんとか無傷でインフィニット・ギターを組み立てたあと、他のメンバーがデインズモートで作業を続ける中、ジ・エッジは新しいおもちゃの限界を試すテストを開始した。「箱から出して、ある部屋でこのギターを弾き出した。そのとき、(バンドの仕事仲間の)ギャヴィン・フライデイとボノがコントロールルームで「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」のバッキング・トラックを聞いていたんだ。この曲に最適なアレンジを探していたけど、そのときは完全に袋小路にハマっていて、この曲をストックに戻す決断をする瀬戸際まできていた。ところが、コントロールルームのドアが開いていて、遠くからインフィニット・ギターの音とベース、ドラムが漏れ聞こえたわけだよ。そして二人は『これだ! この音だ! でも、これは何だ?』ってなった」

ボノはこのギターの音に感激し、のちに「ギターサウンドの美しい幽霊」と表現している。この新たな刺激が創造力を刺激し、この問題含みの楽曲を完成するに至った。「エッジに何でもいいから弾いてくれと頼んだね。エッジは2テイク弾いて、その二つともが『ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー』の最終ミックスに残った。美しいサウンドで、現実のものとは思えない響きだよ」と、ラノアがそのときの模様をホットプレス誌で語った。

7. 「スウィーテスト・シング」は『ヨシュア・トゥリー』セッション中にレコーディングされたボノの妻に対する“謝罪ソング”だったが、アルバムには収録されなかった。

『ヨシュア・トゥリー』のセッションは過酷なもので、その最中にライブ公演も組まれていたため、メンバーの夫婦仲に亀裂を生じさせる結果となり、特にボノの妻アリ・ヒューソンの怒りはひどいものだった。当時、ローリングストーン誌に「俺は非常に強い人と住んでいて、彼女はときどき俺を追い出すんだよ」とボノは話している。「妻のアリとはほぼ1年ぐらい会っていなかった。俺にとって1986年は最悪の一年だったよ。ツアーをするバンドでの活動と結婚の両立はほぼ不可能だね」と。

そして、ボノは妻のために曲を作った。それが「スウィーテスト・シング」。不在がちなことを謝る“謝罪ソング”だ。「この曲は『ヨシュア・トゥリー』セッション中に作った。アリの誕生日だったけど、誕生日だから作ったわけじゃなかったんだ」と、1998年にボノが回想している。この曲はアルバムに収録するためにレコーディングしたのだが、バンドは何度やっても、その出来栄えに満足できなかった。「この曲はいつも『もっと上手くできたのに』と思ってしまう曲だった。俺の頭の中でこの曲は常にポップソングだし、もっと上手くできると思っていたね」とボノ。

アルバム『ヨシュア・トゥリー』には収録されなかったこの曲は、1988年9月にリリースされたシングル「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネーム」のB面に収録されることとなった。これは、ベストアルバム『ベスト・オブ・U2 1980-1990』のB面だけを集めたコンピレーション・ディスクに収録するために、プロデューサーのスティーヴ・リリーホワイトの助けを得てやっと完成する10年も前のことだ。「この曲が未完成だってことは自分たちも気づいていた。でも、エッジが追加のコードを2〜3思いついて、あっという間に完成したんだ。それを聞いて、俺たちは『ああ、それだ、そのまま残そう』ってね」と、クレイトンがエンターテイメント・トゥナイトで語っている。

ヴォーカルを新たに入れ直し、楽器のアレンジも向上させた「スウィーテスト・シング」は、シングル曲としてリリースされ、世界各地でトップ20入りする成功を収めた。そして、このミュージック・ビデオにはボノの妻アリが出演した。しかし、このとき彼女はこの曲の収益をチェルノブイリ・チルドレン・プロジェクトに寄付する条件を付けたのだった。

Translated by Miki Nakayama

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