U2『ヨシュア・トゥリー』の知られざる10の真実

9. ヨシュア・トゥリーのワールドツアーでボノは傷だらけになった。

「切り傷と青あざだらけ。ヨシュア・トゥリー・ツアーで俺が覚えているのはそれだけだ」と、ボノはバンドの自叙伝で語っている。1987年4月から12月にかけて、北米とヨーロッパで合計111公演を行なったこのツアーが叩き出した利益は4000万ドルを超えたが、そのためにボノが払った代償は相当なものだった。

ボノの不運が始まったのは4月1日だった。翌日にアリゾナ州テンピでのツアー初日を控え、バンドは会場でリハーサルを行なっていたのだが、その途中でボノは転倒してしまった。『U2 BY U2』の中でボノは次のように説明している。「ライトと一緒に転んだものだから顔を切ってしまった。今でもアゴに傷跡が残っている。俺は音楽に夢中になっていたし、ツアー直前というのはステージの状態と、自分のステージングがどんなふうになるのかを把握したいものなんだ。そして、自分の体力も過信してしまう。自分は超合金でできている気分になるけど、現実はそんなわけがない」

近隣の病院で傷を縫ってもらったが、その翌日の夜、U2がアリゾナ州立大学アクティヴティ・センターに戻ったときも、ボノには不運がつきまとった。集中的なリハーサルを1週間行なったせいで、初日の公演中にボノの声が枯れてしまったのだ。「太陽の下に長くいたせいだな」と、ボノはソールドアウトしている客席に向かって説明し、一緒に歌ってくれるように促した。そして「今夜はみんなが一緒に歌ってくれて嬉しいよ」と感謝したのだった。

翌日は終日のどを休めたおかげでボノの声は驚異的に復活したのだが、9月20日にワシントンDCのロバート・F・ケネディ・スタジアムでの公演中に再び不運に見舞われる。ジ・エッジの記憶によると、その日の公演は最初から少し危うげだったらしい。「あの頃のU2は、ライブ中に何か起きると最悪の状況に陥ることが多かった。(中略)特にこのときのライブでは、勢いをつけようと思ったのか、ボノがステージの端からウィングまで勢いよく走った。ところが、この日は小雨が降っていてウィングがビニールで覆われていたから、スケートリンクのような状態になっていて、彼の両足は見事に滑ってしまった」と説明する。

雨以上にボノが責めたのは、アクシデントを引き寄せた自分自身の負のエネルギーだった。「あのとき歌っていたのが『エグジット』で、本当にひどい状態になってしまった。(中略)左肩で着地したせいで鎖骨の靭帯を3ヵ所、ひどく痛めてしまったんだ。その痛みは相当なものだったし、これは一生完治しない。あのあと左肩が前に傾いてしまったから、元の位置に戻すために肩のトレーニングが欠かせなくなっている。あの事故を起こした原因が怒りだったこともあって、この事故で怒りは健康を損なう高い代償を突きつけると知ったよ」

10. U2はカントリー・グループに扮して、自分たちのライブの前座を行なった。

1987年11月1日にインディアナポリスで行われた公演で、オープニングを務めたボディーンズとロス・ロボスの間に、あるバンドのデビューライヴが行われた。このバンドはダルトン・ブラザーズという正体不明のカントリー・グループだった。「アルトン」、「ルーク」、「デューク」、「ベティ」のダルトン・ファミリー4人組は、オリジナルバラード曲「Lucille(原題)」とハンク・ウィリアムスの「Lost Highway(原題)」の2曲だけで構成された短いホーダウンを披露した。大きな帽子を被ってサザンカンフォートをがぶ飲みする長髪のこの4人がU2だとその場で気づいたのは、最前列にいた数少ないファンだけだった。

「俺たちが演奏するのは2種類の音楽、つまりカントリーとウェスタンだ」と、ダルトン・ブラザーズのサイトにあるバイオに記されていて、ウィリー・ネルソン、ジョニー・キャッシュ、ロレッタ・リンに大きな影響を受けていると書くなど、本物らしく精巧にできている。バンド名は1890年代に銀行や列車を襲った実在の盗賊軍団ダルトン・ギャングに由来するという。

このダルトン・ブラザーズはインディアナポリス以外に2回登場している。11月18日のロサンゼルス公演と、12月12日のヴァージニア州ハンプトン公演だ。「これはファームエイドのようなもので、俺たちはこのやり方が気に入っている。あんたらは最高に美しいよ。ロサンゼルスでは金じゃなくて愛で世の中が回っていると知って、俺は嬉しいよ」と、ボノ(別名アルトン)はステージ上で流暢な南部訛りを披露したのだった。

Translated by Miki Nakayama

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