約100年前、1920年の11月25日、誰も知らない、アメリカンフットボール史上最大で最も重要な試合がシカゴで行われた。アメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエーション(APFA)はオハイオ州カントンの自動車ディーラーで設立されたかもしれないが、中心はウィンディ・シティの方だった。
というのも、このリーグは中西部の街のチームで構成されていて、シカゴが一番大きかった。ここを本拠地としていたのは2チーム、ノース・サイドのシカゴ・タイガースと、ラシーン通り沿いにあったノーマル・パークをホームとしていたことからその名がついた、サウス・サイドのラシーン・カージナルスだ。同じリーグで競い、同じファン、そして何より同じ賞金をかけて戦っていた。しかし、いくらシカゴが一番規模が大きかったとはいえ、そこまで大きいわけではない、と彼らは感じていた。その結果、1万人のファンの前で行われた初めての対決が0対0の引き分けで終わったのにも関わらず、タイガースとカージナルスはどちらかが去らねばならないと同意した。2回目の試合の結果次第で、敗者はチームを畳まなければならない。
シーズン終了も待たず。ただ荷物をまとめて去る。感謝祭の日に、それだけ。いい話だろう? もちろん――それが本当の話だったら。
「都市伝説です」とアメリカン・フットボール史学者で元プロフットボール研究組合会長のケン・クリッペン氏は語る。「タイガースはチームとしてうまくいっておらず、経営難で頭を悩ませていました――カージナルスと張り合うのは無理がありました。タイガースが店仕舞いしたのは財政難のせいで、試合結果のせいではありません」
タイガースとカージナルスがそのシーズン2回目の試合を行ったのは本当だが、感謝祭の日ではなく――実際は11月7日――そして間違いなく「敗者が街を去る」という条件はなかった。決戦の舞台はカブス・パーク(現在のリグリー・フィールド)、6対3でカージナルスが勝利を収めた。クォーターバックのパディー・ドリスコルが40ヤード走り、7000人の観客の前でこの試合唯一のタッチダウンを決めた。