J-POPの歴史「1982年と1983年、70年代のムードを断ち切った転換点」

海外との接点を求めた矢沢永吉、甲斐バンド

そして、オフコースは日本のポップスのアルバムの中で、音のクオリティを格段にあげた人たちでもあります。1980年のアルバム『We are』からビル・シュネー、ボズ・スキャッグスとか、西海岸のAORをずっと手がけていた人たちを起用。小田さんはソロになってからもずっと一緒にやっていました。70年代が終わって、80年代に入って、日本の社会も、レコード会社もリスナーも多少懐に余裕ができてきて、アメリカに行ってレコーディングをしたりする。アメリカの人たちと一緒に組んで何かすることが、それまでより自由にできるようになった。オフコースもそういう人たちでしたし、次の人はそこに人生をかけた人です。海を渡りました。矢沢永吉さん「ROCKIN’ MY HEART」。

矢沢永吉 / ROCKIN’ MY HEART


英語の曲です。みんな夢を見たんですよ。82年10月に出たシングルですね。これはアルバム『YAZAWA It’s Just Rock’n Roll』に入っていて、プロデュースがドゥービー・ブラザーズのボビー・ラカインドとジョン・マクフィーです。シングルで出て、ビルボードの推薦曲にもなっています。矢沢さんは81年にアメリカに渡って、1から生活して、英会話学校に行って、アパートを借りて、エレクトラ・アサイラム・レコードと契約して、アルバム『YAZAWA』を出した。82年7月に出したセルフプロデュースの海外録音作『P.M.9』も、いいアルバムでしたね。そこに収録されている「LAHAINA」をかけようかなと思ったんですけど、これにしました。矢沢さんは『P.M.9』で、ドゥービーのメンバーを連れて帰国して武道館公演を行いました。そのとき僕が矢沢さんにインタビューして、大阪のスポーツニッポンで1カ月連載で書いたことがあるんですね。30回連載。おもしろかったですね。大阪のスポニチは翌年、萩原健一さん、そのあと沢田研二さん、1ヶ月連載を25本とか30本やらせてくれた。それが当時の大阪スポニチ文化部長、松枝忠信さんでした。ありがとうございました。と今頃お礼を言わせていただいております(笑)。

この人たちは、ニューヨークで連作アルバムを作りました。甲斐バンド、1982年12月発売、「ナイト・ウェイブ」

甲斐バンド / ナイトウェイブ

これは甲斐バンドの中でも屈指の名曲だと私は思っています。80年代前半の甲斐バンドは意欲的でしたね。1つは野外コンサート。80年に箱根の芦ノ湖半。81年に花園ラグビー場。83年に新宿西口新都心、今都庁が建っているところで、2万人くらい集めて野外コンサートをしたんですよ。『THE BIG GIG』。そういう誰もやっていないことをやろうというのが、当時の甲斐バンドの周辺、スタッフも含めての1つの生きがいになっていました。

もう一つは音にこだわった。エンジニアにこだわった。「ナイトウェイブ」が入っている82年のアルバム『虜-TORIKO-』、83年の『GOLD/黄金』、84年の『ラヴ・マイナス・ゼロ』。これがニューヨーク三部作と言われているんですね。エンジニアに起用したのがボブ・クリアマウンテン。ブルース・スプリングスティーン、ザ・ローリング・ストーンズ、ロキシー・ミュージック、デヴィッド・ボウイもやっていたな。「レッツ・ダンス」もボブ・クリアマウンテンですね。グラミー賞をとりました。そういう人を起用してパワーステーションというNY53丁目にあるスタジオでトラックダウンをやったんですね。僕は幸運にもそのレコーディングに3回とも行けているんですけど、今の曲なんかはフリートウッド・マックとかトーキング・ヘッズとか、そういう洋楽の中にあったエスニックなものとファンクを一緒にしている。とっても斬新な音楽でもあるんですけど、なかなか日本では理解してもらえなかった。取材しにいっている僕らもそこまで語るだけの力量がなかったということで、申し訳なかったなって今、思ったりしてます。

NYで映像を撮ったり、ジャケットを撮ったりするときに、いろんなところを回りました。カメラマンの井出情児さんとマンハッタンをロケハンして回ったな。これは個人的な思い出になってしまいますね。海外との距離が近くなったという意味で、日本で評判になるより先に海外から火がついたという人たちもいたんですね。その人たちの代表がYMO。YELLOW MAGIC ORCHESTRAで83年になってシングルの大ヒットが出ました。83年3月発売。「君に、胸キュン。」

YELLOW MAGIC ORCHESTRA / 君に、胸キュン。


作詞が松本隆さんです。これはシングルチャートが2位だったんですね。1位がなんだったか覚えてらっしゃいますか? 松田聖子さんの「天国のキッス」なんです。両方とも作曲が細野晴臣さんなんですよ。松本さんの話だと、細野さんがシングルヒットを出したいんだということで、これが生まれたらしいんですけど、そのときに細野さんは「天国のキッス」の発売日まで頭になかったという。それがあの人の甘さだよねって言っていたことがありました(笑)。今年、細野晴臣さん50周年。六本木で「細野観光1969 – 2019」っていう展覧会をやっていましたけど、おもしろかったですね。今年の細野さんのワールドツアーが舞台になっている映画『NO SMOKING』も、細野さんの50年間が織り込まれている、とってもしゃれたドキュメンタリーでした。この番組で細野さんをやらなければいけないなと思っているんですが、幅が広すぎて、どうやって組めばいいんだろうと思い悩んでいる間に時が経って、今年も終わろうとしています(苦笑)。

松本さんが、詞もちろん、曲も演奏も、いろんな形で新しい歌謡曲を作るんだという姿勢を持っている中で、松田聖子さんがその軸になっていきました。大瀧詠一さんが「風立ちぬ」を書き、ユーミンが「赤いスイートピー」を書き、細野さんが「天国のキッス」を書いた。もちろんギターは鈴木茂さんが弾いている。松田聖子さんを軸にしてはっぴいえんどが再結成されるみたいな、そういう関係がずっと続きましたね。YMOは、81年に一回休止して、再開したのがこのシングルでした。このあとにアルバム『浮気なぼくら』を出して83年の12月22日、武道館で散開。そういうテクノロジーを使ったポップミュージックとをYMOが実験的に始めて、それがいろんな形で受け継がれていく。YMOのあとをバトンタッチした人がいますが、その人たちの話は来週ということになります。

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