JAGATARAと江戸アケミの音楽は、30年後の腐敗しきった日本でどのように響くのか?

JAGATARA(Courtesy of ソニー・ミュージックダイレクト)

バンドの復活サブスク解禁、新曲発表——ここにきてJAGATARAが大きな盛り上がりを見せている。彼らと関わりのあった音楽評論家・高橋健太郎が緊急寄稿。2019年の終わりに、伝説的バンドの歩みを振り返る。

JAGATARAのリード・ボーカルの江戸アケミが急死してから30年が過ぎようとしている。30年目の命日に当たる2020年1月27日にはOTO、EBBY、テイユウ、南流石らを中心にしたJagatara2020がコンサートを行い、2曲の新曲と80年代の未発表音源をコンパイルしたミニ・アルバム『虹色のファンファーレ』をリリースすることもアナウンスされている。ざわざわした気分で、それを待ち受けているのは、僕だけではないだろう。

Jagatara2020は2019年3月のTokyo Soy Source出演が契機となって、新曲の制作を開始。それに合わせて、多くの物事が動いたようだ。12月18日には、かつてBMGビクターが発売していたJAGATARAの過去作品、10枚のサブスクリプション配信も始まった。年明けにはアナログ盤リイシューのニュースもあるが、存在が伝説化されてはいても音源へのアクセスは難しかったJAGATARAの主要作品が、サブスク解禁されたのは大きな出来事だ。

JAGATARAは時期によって、幾つかの異なった名前、表記を使っていたが、本稿ではそれらをすべてJAGATARAと統一表記することにする。また、ひとつ断っておくと、筆者は立場としては、JAGATARAの関係者の一人になる。1989年の『ごくつぶし』と江戸アケミの死後に発表された『そらそれ』、『おあそび』の制作に関わった。江戸アケミの最後の録音となった『そらそれ』のマルチ・テープを携えて、パリにいる時にOTOからの電話で彼の死の報を聴いた。

JAGATARAを初めて観たのは1980年に新宿ACB会館で行われた「天国注射の夜」というイベントだったと思う。江戸アケミが額を切って、血だらけになるパフォーマンスで話題を呼んでいた頃だ。1983年のEP『家族百景』のリリース前後に、ジャケット・デザインを手掛けていた八木康夫を通じて、OTOと知り合ったように記憶する。故・篠田昌已のように、JAGATARAとは別のところで知り合っていたミュージシャンも参加メンバーにはいた。そういう意味では80年代を通じて、JAGATARAの近くにはいた人間だと思う。

だが、サブスク解禁されて、振り返ることがたやすくなった10作品を前にして、僕は自問している。自分はJAGATARAをどれだけ聴けていたのか?と。懐かしいというような感触はまったくない。それよりも、当時は受け止め切れなかったJAGATARAの音楽の多層性や危ういバランスに心かき乱されてしまう。

JAGATARAの活動期間は1980年代とほぼ重なる。日本人がバブルに浮かれていた時代。今のような日本経済の凋落は誰も想像していなかっただろうし、ここまで政治の腐敗や社会の劣化が進むと考えていた人もいなかっただろう。だが、80年代に江戸アケミが書いていた歌詞は、あたかも今、我々の眼前で起こっていることをそのまま描写しているように響く。当時は物質文明への警笛くらいの抽象的な捉え方しかしていなかった言葉が、より重いインパクトを持って迫ってくる。





「ちょっとの搾取なら がまんできる」

1987年の『裸の王様』に収録された「もうがまんできない」で江戸アケミはそう歌っていた。「もう我慢できない」という言葉は、実はこの曲のタイトルにしかない。搾取も歪みも裏切りも罠もちょっとならば我慢できる、心の持ちようで、というのが、この曲の歌詞の趣旨だった。そして、柔らかなレゲエ・リズムに乗った「心のもちようさ」というコーラス・リフレインに揺られて、聴衆は踊っていた。

だが、「ちょっとの搾取」はその間にもじわじわと積み上げられていく。そして、「もうがまんできない」時がやってくる。江戸アケミはそこまでの反語性を意識して、この歌を書いたのだろうか。30年以上が過ぎた世界で、僕は考え込んでいる。

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