クリープハイプ「愛す」を金原ひとみが考察

クリープハイプ(Courtesy of UNIVERSAL MUSIC JAPAN)

「愛す」と書いてブスと読む。そんなインパクトのある最新シングルを1月22日にリリースするクリープハイプ。表題曲は既に配信され、AC部によるミュージックビデオも公開中だ。

昨年、文芸誌『小説トリッパー 2019年春号』に掲載された尾崎世界観の対談連載にも登場し、クリープハイプのファンを自認する作家・金原ひとみが「愛す」について特別に寄稿してくれた。

愛の解体と再定義

言葉とは記号であり共同幻想だ。例えば、愛しい人に呼びかける時口にするその名前は、誰かがその存在に与えた記号であり、「愛」という誰かが名付けた記号を用い、愛を囁く自分に名付けられた名前もまた記号。記号に満ちた世界に生きる私たちは、それでも記号を駆使して誰かに愛を伝えようとするし、記号によって幸も不幸も享受し、時には記号によって生き延び、記号によって死を迎えたりもする。記号にそれだけの力があるのは、その記号を多くの人と共有して生きているからで、例えば自分のツイートがロシア語で激しく罵られロシア人の間で炎上したとしても、人は大して憂鬱になったりはしないだろう。

あらゆる言葉の中でも、「愛」という言葉は暴力的だ。定義が曖昧であるにも関わらず、そこに籠められる意味はあまりに広く、万能で、この言葉にタグづけされる全てのものに説得力のある根拠を持たせてしまう。

尾崎世界観は新曲「愛す」でこの強力な魔力を持った、「愛」という言葉の解体、そして再定義に挑んだのではないだろうか。私はこれから「ブス」と罵られた時きっと「愛す」という字面を思い浮かべるだろうし、その瞬間ドアが閉まる「バス」のイメージが浮かんでくるに違いないし、誰かに「会いたい」と言われた時には「曖昧」と「あ、今いい」というニュアンスが混ざった形で相手の気持ちを享受するだろう。彼はこの曲で、「愛す」という記号を見た時に人々が無条件に抱いてしまうイメージに揺さぶりをかけ、疑いを抱かせた後、「こういうことなんじゃない?」とぶっきらぼうに再定義をしてみせたように見える。




「愛す」ジャケット(Courtesy of UNIVERSAL MUSIC JAPAN)

言葉は嘘をつく。幻想を見せる。人を酔わせる。決して誠実なものではない。伝えたいことをエモーショナルに表現すればするほど、人の感情を激しく動かすことができる。例えば私はお気に入りの曲を聴いている時やライブを観ている時、魔法にかかったように元気になったり、魔法にかかったように死にたい気持ちが消えたりする。でもそれはやはり魔法のような快楽で、ドラッグのように一夜の夢しか見せてくれないことがほとんどだ。それに対し、「愛す」が与えてくれるのは、より根源的な、「愛」という言葉にまとわりつく手垢をシンナーで拭き取り、少し痛い思いをしながらもそのざらざらとした本質に触れるような深い充足だった。それは尾崎世界観が魔法使い的な、誰かを酔わせるための言語的カタルシスを敢えて排除し、言葉の形を模索し続けているからではないだろうか。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE