早すぎた死、コービー・ブライアントがやり残したこと

2015年12月2日、米ワシントンD.C.のキャピタル・ワン・アリーナ(旧ベライゾン・センター)でワシントン・ウィザーズとの前半戦中に対戦相手を見つめるロサンゼルス・レイカーズの背番号24、コービー・ブライアント。(Photo by Rob Carr/Getty Images)

"コービー・ブライアント”という人物について我々が深く知るよりはやく、米スポーツ史上もっとも偉大で一筋縄ではいかない選手が逝ってしまった。

ロサンゼルスのヘリコプターの音はどこか異質だ。ここではヘリコプターのローター音が独特な不穏さで街に響き、警察やメディアの張り込み取材をたびたび連想させる。ヘリコプターの音を聞いて万事順調と思う人なんてほとんどいない。なぜならそれは、不吉さの前兆だからーー。

かすみがかった日曜の朝、霧と雲のあいだから太陽が姿を見せることがなかったあの日の朝を境に、ロサンゼルスの人々にとってヘリコプターの響きはより痛ましい意味を持つようになっただろう。パイロットを含む9名が凄惨な墜落事故によってカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のカラバサスの丘陵地帯で命を落としたのだ。墜落したヘリコプターには、13歳のジアナ・ブライアントさんと父コービー・ブライアント——おそらくロサンゼルス・レイカーズ史上屈指の選手であり、同地でもっとも愛されたスポーツ選手——が搭乗していた。

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ロサンゼルスはすでに喪に服す準備を進めていた。というのも、殺害された同地出身のラッパー、ニプシー・ハッスルこと故エルミア・アスゲダムの追悼パフォーマンスが第62回グラミー賞授賞式の夜に予定されていたのだ。2019年3月にサウス・ロサンゼルスで銃殺されたニプシー・ハッスルは初のグラミー賞に輝き、最優秀ラップ・パフォーマンス賞と最優秀ラップ/ソング・コラボレーション賞を受賞した。故人に代わって遺族が賞を受け取る姿は、続く2020年に我々が目の当たりにする光景の予告編のようだった。41歳という若さでこの世を去ったブライアントのネイスミス・メモリアル・バスケットボール殿堂入りが事故後に濃厚となったのだ。

ニプシー・ハッスルとコービー・ブライアントには悲しい共通点がある。どちらも早すぎる死を遂げた——それも、我々が彼らの人となりを完全に把握する前に。両者は決定的な欠点のある過去を背負いながらも、彼らなりの方法で贖罪を求めた。それに、ふたりにはまだやり残したことがある。でも、彼らにはもう会えない。両者がどんな人物になり得たかを完全に知ることは、もはや不可能になってしまった。

こうした事実は、ブライアントの人となりを知ろうとする我々にずっとつきまとうだろう。我々は、レイカーズでプレイした20年にわたって彼を偉大さへと導いた労働倫理を知っている。ブライアントのフィジカル面での強さは凄まじく、アキレス腱を断裂した状態で立ち、フリースローを2本決めたことが以前に一度あった。筆者は、根っからのブライアントファンというわけではない。学生だった頃、1996年に米ペンシルベニア州フィラデルフィアで当時高校生だったブライアントのプレイを見て、彼の傲慢さが鼻についた(2016年に米ローリングストーン誌はブライアントの引退試合後に「NBA’s All-Time Asshole(NBA史上最高のひねくれ者)」と題した記事でブライアントを称えている)。だが、ブライアントがコートで魅せた信じられないほど多彩なスキルに敬意を抱かずにはいられなかった。試合に臨むブライアントの姿勢のなかでも筆者がもっとも感心したのは、彼が一切恐怖と諦めの気持ちを持っていなかったことだ。ブライアントはマイケル・ジョーダンではなかったが、スナイパーのようにシュートを決め、ジョーダンとレイカーズの現役スター選手レブロン・ジェームズをつなぐ存在だったことはほぼ間違いない。ブライアントのディフェンスには、ムカつく弟のようなしつこさがあった。彼は頭が切れて、常に集中していて、烈火のようだった。


我々は、ブライアントの一貫性のあるプレイと、ドライでありながらも示唆に富む彼のキャッチフレーズから多くを知ることができる。だが、ブライアントは一筋縄ではいかない、繊細な人物だった。彼は複数の言語を操り、知的好奇心を持ち、オタク気質の筆者にまで優しく語りかけてくれた。いまやロサンゼルスの住人になった筆者は、ブライアントのこうした側面がレイカーズ後の人生で開花するのを目の当たりにするのが楽しみだった。

一般市民として生きることに苦戦する多くのアスリートと異なり、ブライアントの人生は順風満帆だった。もしバスケットボール殿堂入りセレモニーでスピーチをする機会があったなら、彼特有の粘り強さが2016年の引退から、自ら携わった短編アニメ『親愛なるバスケットボール』のオスカー受賞へと導いてくれたことに触れたかもしれない。ブライアントは世界レベルでバスケットボールの発展を支援し続け、さまざまな慈善活動とベンチャーキャピタル企業一社と仕事をした。だが、何よりもまずブライアントは率先して参加する父親であり、レイカーズ戦のコートサイドを娘のジアナさんと頻繁に訪れては、ジアナさんやほかの少女たちにマンバ・スポーツ・アカデミーでコーチとして指導にあたった。悪夢の日曜の朝に墜落したヘリコプターは、まさにマンバ・スポーツ・アカデミーに向かっていたのだ。


コービー・ブライアントと娘のジアナ・ブライアントさんは、1月26日のヘリコプター墜落事故で死亡した。
Photo by Allen Berezovsky/Getty Images

だが、これらはすべてブライアントがすでに取り組んでいたことしか教えてくれない。ブライアントはどんな人物になり得たのだろうか? 筆者は、彼がはるかに偉大な存在になれる可能性を持っており、そうなるだろうと確信していた。負けん気の強い競争心のおかげで、ブライアントが全世界のアスリートにとっての模範だったことはいうまでもないだろう。スター選手から百戦錬磨の長老へと成長するにつれて、ブライアントの功績はどのような進化をたどろうとしていたのか?

Translated by Shoko Natori

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