浅川マキ没後10年 魂の歌に寄り添い続けたプロデューサーの告白

浅川マキは家出同然で上京した

田家:これは、東芝音楽工業から出た訳ですが、マキさんは美川町役場で年金の窓口をしていた。家出同然で上京した。これは有名な話です。この歌は彼女自身なんでしょうね。

寺本:僕もしばらくして「アビオン・レコード」を辞めるんですけれど、ある時に横浜のバーで彼女が「奇妙な果実」を歌ったんですよ、日本語に直して。それを聴いた時に彼女はすごい言葉の響きを持っているなと思って。それで「曲書いた方がいいよ」って言ったことはあったんだけど、すっかり忘れている時に「一曲できたのよ」って歌ってくれたんです。その時「すごいじゃない」ってなって。それを寺山さんに聴かせて。「誰の歌?」って言うから、「マキが作ったんです」って言うと、「おお」と。もう、寺山さんに構成・演出を頼もうと思っていた時期だったので。「夜が明けたら」が寺山さんの中に入った。俺は俺で浅川マキにこう言う歌を歌わせたいっていう。「夜が明けたら」が、寺山さんとやっている時も、シングルのA面にした時も寺山さんは何も文句を言わなかったですからね。ただ、当時マキにはこの1曲しかなかったからこれにした。という曲なんです。

田家:寺山修司さんとの関わりも始まったという曲でもある訳ですね。

・浅川マキ「かもめ」


田家:流れているのは、「夜が明けたら」のカップリングでアルバム『浅川マキの世界』にも入っている作詞・寺山修司、作曲・山木幸三郎さんで、「かもめ」です。

寺本:アンダーグラウンドシアターさそり座のときも、一番客の反応が良かった。この2曲で半年後にシングルを出したんですけれど。「夜が明けたら」はちょうど学園闘争のある頃で、みんなバリケード作って学校に閉じこもってました。そう言う場所から、ラジオの深夜番組のリクエストが来るんですよ。

田家:バリケードの中からね。いい話だな(笑)

寺本:それをかけると、今度はまた他の大学から電話がかかってくる。「1時間前にかけましたけど」って言ったら「それは本校がリクエストしたものはかけられないってことか!」と脅しが来ましてね(笑)。そんなことがいつもあって。あの頃の学生たちにすごく飛び込んだ曲です。

田家:新宿の街で何回聴いたことか。

寺本:あの頃は大きなバーとかには必ずジュークボックスがありましたね。ジュークボックスのベスト10に「かもめ」も入ってきまして。「かもめ」を歌いながら酒を飲むって言うのが流行ったんですよ。このカップリング両曲ともですね新宿、池袋界隈ではすごく騒ぎになるくらい広まったと言うことがありますね。

田家:寺本さんと寺山さんと言うのはいつから始まったのですか?

寺本:僕は、元からアンダーグラウンド的な芝居とか舞踏だとかの表現が割と好きだったんです。当時新宿に住んでいたものですから、新宿をうろうろしていて。その時に、天井桟敷の九条映子さんに出会って。彼女とはその前に松竹でお会いしていて。伴 淳三郎っていう役者のマネージメントなんかもしていたので。それで話すようになって、九条さんの繋がりで寺山さんを知って、よく出入りするようになりました。

田家:寺本さんは1938年生まれ、寺山さんは1935年生まれ。世代的な何かはありましたか?

寺本:ありますね。僕より3つか4つ上の世代の方はまた違ったエネルギーを持って動いていた時代でしたから。そう言う意味では寺山さんの考えていることが、あの頃は年上の人たちのものから影響というのもおかしいけれど、そういうものをすごくもらいましたよね。

田家:浅川マキさんを支持するファンには全共闘世代が多かったと。

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