漂泊の詩人、下田逸郎の魅力をプロデューサー寺本幸司が語る

シモンサイの名前の意味

田家:1968年発売のシモンサイ、「霧が深いよ」のアナログシングルをレコードで聴いていただいております。これは寺本さんのプロデューサー経験としては……。

寺本:浅川マキより前ですね。浜口庫之助さんの下で色々勉強していた時に、下田達をデビューさせたいと思った。シモンサイっていう名付け親も浜口庫之助さんなんですね。

田家:シモンサイってどういう意味なんですか?

寺本:下田と斎藤ですから(笑)。

田家:なるほどね、分かりやすいなあ。

寺本:それでフィリップスの本庄さんに頼み込んでリリースさせてもらいました。今でも色濃く思い出しますね。

田家:その時の下田さんってもう長髪でした?

寺本:長髪ですね。いつも尖った目をしてましたよ。

田家:続いては東京キッドブラザースの「歌・花雪風」。1971年発売のオリジナル盤『帰ってきた黄金バット』よりお聴きいただいております。東京キッドブラザースは、1968年に東由多加さんにより設立されました。当初はメンバーが4人で、その1人が下田逸郎さん。渋谷の喫茶店の部屋を買い取ってそこを拠点にしていた。1970年にニューヨークのオフ・オフ・ブロードウェイで上演されたのがこの作品です。日本で最初のロックミュージカルですね。ニューヨークで大ヒットした。下田さんの音楽です。

寺本:そうなんです。だから、東京キッドブラザースはものすごいことをやったんだなってつくづく思いましたね。

田家:寺本さんは、東由多加さんに対しては東京キッドブラザースの立ち上げからお付き合いがあったわけでしょう?

寺本:それは寺山修司さんとの流れで。天井桟敷の設立の時から顔出してましたんで。その流れの中で東由多加と知り合って、彼のラジカルというか、自分の思ったことを叫ぶように言いながらも周りの空気を壊さない。すごい男だと思ったんです。で、彼のやりたいこともだんだん分かってきて。僕はこりゃもう下田と会わせるしかないなって思って。

田家:そこがすごく重要なんですよ(笑)。

寺本:それで下田が東京キッドブラザースの音楽担当みたいになりまして。そこからゴールデンバットの海外公演に繋がってっていう感じですね。

田家:でも下田さんにとっては東由多加さんがいなかったら今の下田さんはないんでしょうし、その道筋をつけたのは寺本さんなんですよね。

寺本:それは間違いないですね。

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