漂泊の詩人、下田逸郎の魅力をプロデューサー寺本幸司が語る

3つのアングラ劇団

田家:当時、いわゆるアングラ劇団。天井桟敷、状況劇場、東京キッドブラザースと3つあって。僕は東京キッドブラザースが一番好きでしたね。深夜放送みたいな感じがあった。出演者が自分の台詞を叫ぶでしょう。あれが深夜放送の投書みたいな感じがして、すごいリアリティを感じましたね。ニューヨークで成功した後は東京の後楽園ホールで『帰ってきた黄金バット』という公演をやって。その後に下田逸郎さんは東由多加さんと決別する。

寺本:ちょっと別の話になるんですが、9月にニューヨークに行って「黄金バット」を見て、その後の11月に三島由紀夫が割腹自殺しましたね。その夜に下田から電話がかかってきましてね、「三島が死んだのか!」って。もう大騒ぎになったんですよ。「三島ー! 三島ー!」って。で、ちょっと待ってくれよ。俺はそれ以上のことは分からないし、今夜はとりあえず電話を切るぞって切ったんですよ。それから間もなくしないうちに下田から電話がかかってきて。「寺本さん、この公演は打ち上げして帰ります」って言っててね。公演は12月いっぱいまで契約が残ってるのにね。「公演なんてやってる場合じゃない、すぐに日本に帰ります」って言って帰ってきましたね。という経緯があって、後楽園ホールに繋がってるんです。

田家:なるほど。その後に下田さんと東さんが話し合いをして。喧嘩になったという説もありますが。

寺本:喧嘩にはならなかったけど、ニューヨークでの1年間、現地の人もキャストで入ったりしてやってましたからね。色々あったでしょう。そういう中でもうこれ以上お前とはやれないっていうのがお互いにあったと思うんですよ。例えば、下田は現在もそうですけど1人っていう位置を崩さない人間です。でも東由多加は、劇団四季を目指していたようなところがあったみたいですね。アンダーグラウンドっていうのとはどこか相容れない部分があったように思います。

田家:続いてお聴きいただいているのは、レーニア(りりィ)ですね。「ひとりひとり」という曲です。1971年発売、下田逸郎さんの1枚目のアルバム『言歌~誰にも知られずに消えるしかないさ』に入っております。

寺本:りりィに会ったのは彼女が19歳の頃で、20歳で僕がデビューさせるんですけども。僕が知り合ったばかりの頃に下田に紹介したんですね。で、下田がこの声が欲しいって言うんで東由多加に紹介して、詩を書いてもらって作った曲がこれなんですよ。りりィの生まれて初めてレコードになった声っていうのがこの曲です。

田家:なるほどね。詩が東由多加さんなんですね。

寺本:この詩で下田逸郎と東由多加は決別するっていう最後の曲ですね。

田家:歌詞の中にですね、「ロングヘアーが何になる魂の墓場はどこにある」、「汚れたジーンズがなんにある、虚しい心どこにある」っていうのがあったんで、下田さんの方から東さんへの決別の歌を送ったのかと思ったら違ってました。この『遺言歌~誰にも知られずに消えるしかないさ』には、下田さんが色々な人への遺言の文章を書いているんですね、その中に東由多加さま、浜口庫之助さま、ご両親、寺山修司さま、真崎守さんなどへの遺言があるというアルバムですね。

寺本:今何十年か振りにそれを見せてもらったので、細かいことは覚えてないんですけどもね。当時、21歳でこのレコードを作って海外へ行ってしまうなんてそれはちょっとないんじゃない?とは言ったんですけど。これで区切りをつけて次の場面に行くからって去っていきました。

田家:「誰にも知られずに消えるしかないさ」っていうサブタイトルがついてます。でもそういう意味では下田さんのその後の生き方っていうのは変わらないものがあるんですか?

寺本:ずーっと変わらないですね。自分の一人息子に対して「旅人」って名付けてるくらいですからね。

田家:でも浜口庫之助さんの下で詞曲のコーチ役をやっているときにはそこまでの感じでしたか。

寺本:その時から、自分の置かれている場所、何をしようかっていうことをすごい深いところまで感じている。孤独なんだけど、1人で屹立して立っている感じがしました。

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