屈指の存在感と歌唱力の持ち主、桑名正博をプロデューサー寺本幸司が語る

桑名正博のCD(3rd Album『テキーラ・ムーン』)を手にした寺本幸司(左)、田家秀樹(右)

音楽評論家・田家秀樹がDJを務め、FM COCOLOにて毎週月曜日21時より1時間に渡り放送されているラジオ番組『J-POP LEGEND FORUM』。

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2020年2月の特集は、浅川マキを始め、数多くのアーティストを世に送り出したプロデューサー「寺本幸司」。寺本がプロデュースしたアーティストを一カ月に渡り語っていく。パート4となる今週は「東のキャロル、西のファニカン」と呼ばれ人気を博したファニー・カンパニーを経て、ソロで「セクシャルバイオレットNo.1」でヒットを飛ばし、俳優や実業家としても人生を送った桑名正博について語る。

・桑名正博「月のあかり」


田家秀樹(以下、田家):こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、桑名正博さん「月のあかり」。作詞が下田逸郎さんで、作曲が桑名正博さん。オリジナルは1978年に発売になりました3枚目のアルバム『テキーラ・ムーン』収録です。先週と今週の前テーマはこの曲です。今月2020年2月の特集は、寺本幸司。今週はパート4。最終週ですね。やはりこの人の話で締め括らないといけない。日本のロックアーティストとしては屈指の存在感と歌唱力の持ち主。特に関西のロックファン、音楽ファンにとっては、特別な記憶とともに思い出される人。桑名正博さん。1972年、関東のロックバンド、キャロルと並び称された日本語のロックバンド、ファニー・カンパニーのヴォーカリスト、ギタリストとしてデビュー。アルバムを2枚残して解散、1975年にソロでの一歩を踏み出しました。寺本さんは、ファニー・カンパニーのデビューから関わってこられたプロデューサーであります。こんばんは。

寺本幸司(以下、寺本):こんばんは、よろしくお願いします。

田家:関西のロックファンにとっては大切な人でしょうし、最後はそういう人たちに対して敬意を表しながら締めくくれたらと思っています。桑名さんは江戸時代から続く廻船問屋の7代目。

寺本:「桑文」という廻船問屋の7代目で、彼と知り合った頃は大阪港の埋立地に7万坪の土地を持っているという話で、いまユニバーサルスタジオジャパンがある土地も持っていたというくらいの大変大きな老舗・桑名興業という会社の長男でした。

田家:ユニバーサルスタジオジャパンは、桑名さんの御先祖の土地にできたんですね。すごい(笑)。東京は月島出身、江戸っ子の寺本さんが、どういう経緯でデビューを手掛けられるようになったのかは当然お聞きしたくなりますよね。

寺本:この頃、浅川マキはもういいとことにいっているし、りりィもデビューさせていて。まだ「わたしは泣いています」は出来ていませんでしたが、プロデューサーとしてはガンガンにやっていた頃でした。

田家:飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

寺本:モス・ファミリィという事務所も作り、ここから行こうという時期に、ワーナー・パイオニアの栗山さんという方から電話がかかってきて、実は関西にすごいロックヴォーカリストがいるんだと。六本木のうちの事務所の隣だったものですから、彼とツインヴォーカルの栄孝志が2人で来ました。始めに桑名と思われる男がパッと立ち上がってすくすくと僕のほうに寄ってきて「よろしく、桑名です」って握手したんです。僕、そんな経験したことがなかったから戸惑いと同時に、グッと握ってくる感じがすごくよかったし、そこに育ちの良さがしたんですね。それが始まりですかね。いまだにあいつの手の感触を覚えていますよ。19歳の桑名正博。

田家:若々しい。今日はそんな話も含めて後ほどじっくりお伺いしていこうと思います。

Rolling Stone Japan 編集部

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