ジョン・レノン、ラスト・インタビュー|未公開版完全翻訳

ーヨーコは古代エジプトのアートやアンティークに興味を持っていて、自宅にもちょっとしたコレクションがありますね。「空の半分」に関連して面白い話があるのですが、古代エジプト神話で空は女神の象徴とされています。母なる大地が女神の象徴ではなく、地球は男神の象徴なのです。

でも僕はヨーコを「Mother」と呼んでいる。次期米大統領(編注註:ロナルド・レーガン)が妻を「Mommy」と呼ぶようにね。子どものいない人にとっては奇妙に聞こえるかもしれないが、子どもを持ったら夫婦はお互いをそう呼び合うようになるんだ。ヨーコは僕を「Daddy」と呼んでいる。フロイト的とも言えるが、ショーンが僕を「Daddy」と呼ぶからそうなるんだよ。時々僕はヨーコを「Mother」と呼ぶが、それは以前彼女のことを「Mother Superior」と呼んでいたからなんだ。ビートルズの「Happiness Is a Warm Gun」を聴いてみるといい。ヨーコはMother Superiorであり、僕の息子の母親であり、僕自身の母であり娘でもある。僕らの間には、さまざまな関係があるのと同様に多くの段階がある。でも全く不自然さはない。

たった1枚のアルバム、1つの楽曲で僕が表現しようとしていることをいちいち取り上げて評価されたり、批判されたりする。でも僕にとっては、生涯かけた創作活動の中のひとつに過ぎない。少年時代の絵画や詩に始まり、僕が死ぬ瞬間までのひとつの大きな制作過程の一部なんだ。このアルバムは壮大な作品の一部である、などといちいち言わない。理解できなければ忘れてくれて結構だ。『Double Fantasy』の冒頭に少しヒントがある。「(Just Like) Starting Over」の最初の鐘の音がそうだ。ヨーコによる幸せへの願いを込めた鐘で、アルバムが始まる。一方で、プラスティック・オノ・バンドのアルバムに収録された「Mother」では、弔いの鐘がゆっくりと鳴る。教会の重々しい弔いの鐘から、小さく響く明るい幸せの鐘まで長い時間が経過しているが、僕にとっては全てが繋がるひとつの作品なんだ。

ー「Woman」では「Woman, I will try to express/My inner feelings and thankfulness/For showing me the meaning of success」とも歌っています。

有名アーティストやスターとして成功するのがダメだと言っている訳ではないし、またそれが良いことだとも言っていない。「Working Class Hero」の曲が皆に誤解されているのは、これが皮肉を込めた曲だと思われていることだ。この曲は社会主義とは関係がない。「旅を最後までやり遂げたければ、僕のいる場所まで追いついて来い。そうすれば自分の理想的な姿になれる」という意味だ。僕はアーティストとして成功し、良いことも悪いこともあった。リヴァプールやハンブルク時代は無名だったが、楽しいこともあったし、楽しくないこともあった。ヨーコ曰く本当の成功とは、自分が人として成功することであり、彼女や子どもとの関係や世界と自分との関係が上手く行くことだ。そして朝起きた時に幸せだと感じられること。ロック・マシーンだろうがそうでなかろうが関係ない。

僕はリッチになってはいけない殉教者か何かになるべきだと思われているのだろうか? あるろくでなしが最近、エスクァイア誌のカバーストーリーに書いていた。

編集註:同誌1980年11月号に掲載されたジャーナリストのローレンス・シェイムズによる辛辣な記事『ジョン・レノンよ、いったいどこにいる?』のこと。同記事でシェイムズは、「私は沈黙を続けるジョン・レノンを探していた。彼はやたらと他人を怒らせてきた。私のレノンは辛辣な道化師で、欠陥だらけだが立ち直りの早い人間だ。時には大きな赤ん坊であり、真実を探し求める哀れな人間でもある。彼の苦痛に満ちて滑稽で真面目くさった誇大妄想の容貌は、彼の世代の象徴であり良心だった。私の見たレノンはテレビを観るのが大好きで、1億5000万ドルを稼ぎ、息子を溺愛し、さらに電話の途中で割り込んでくるような妻を持つ40歳のビジネスマンだ。ジョンよ、これが君の真の姿なのか? 君は本当にもうギブアップしてしまったのか?」と書いている。

この記者は、20ヶ月かけて僕の行動やくだらないことを観察し続けていた。その間に僕はアルバムを制作したが、このろくでなしは、くだらない面だけを見ていた。まったく、奴らはいったい何が言いたいんだかわからない。僕はいったい何を買うべきだったんだ? 奴隷か、売春婦か?(笑)奴らは自分たちの雑誌や商品がただ売れれればいい、という汚い心の持ち主だ。そんな物は買う価値も無いし、そもそも必要が無いもので、3ヶ月ごとに交換が必要だ。そんな奴らが、僕の何を非難する権利がある? 記事を書いた人間は、かつては普通のいい奴だったのだろうが、今は振られた腹いせに恨み節を並べているような奴だ。奴のことは全く知らないが、僕について勝手に描いた妄想を追い求めることに一所懸命だったんだ。それで結局、思い通りのものが見つからなかったから怒っているのさ。

アーティストに対して抱いた妄想に基づく批判は、アイドル崇拝のようなものだ。僕らのリヴァプール時代に応援してくれたリヴァプールのファンの多くが、その後僕らがビッグになってマンチェスターへ進出すると離れていったのと同じさ。彼らは僕らに裏切られたと思っているんだ。そして僕らがさらにビッグになって世界へ出ると、今度はイギリス人が怒り出す。いったい何なんだろうね? 人気が出るまでは好きでいてくれるが、いざ人気が出ると彼らにとっては裏切りでしかないんだ。今更人気の出る前に戻ることなんてできない。彼らは、シド・ヴィシャスやジェームズ・ディーンのように死んだヒーローを求めているんだ。僕は、死んでしまったヒーローに興味はない。彼らは忘れてしまうべき過去の存在だ。

ユージン・オニール(訳註:20世紀初頭の米国の劇作家)は評論家について、「彼らの頭の中にある骨のひとつひとつまで愛している」と言っている。つまり評論家に対抗する唯一の方法は、公の場で彼らと直接やり合うしかないということだ。僕らがベッドインや『Two Virgins』やプラスティック・オノ・バンドのアルバムでやってきたことや、僕らが今続けていることが正にそれだ。それから僕らは、いろいろな人からの声を聴いている。ヨークシャーに住む少年から、東洋人とイギリス人をジョンとヨーコに関連付けた心のこもったファンレターをもらった。彼は学校で浮いた存在だろう。僕らのことを、愛と平和とフェミニズム、そして世界のポジティブな事象を象徴する人種の異なるカップルだと見るファンは多い。しかしマスコミはいつも、窓の外を通り過ぎるキリンの首の部分しか見ようとしない。だから彼らは全く物事の全体を把握できないんだ。

取るに足らないことだが腹立たしいのは、今やビール腹を抱えた60年代のロック評論家たちだ。彼らはジョン・ランドー(編集註:音楽評論家、レコードプロデューサー、ブルース・スプリングスティーンのマネジャー)のようなガッツは持っていない。彼は自ら現場で実践する根性があった。僕はレスター・バングスを尊敬している。彼はミュージシャンであり評論家でもある。彼は何度も、僕のことを批判してきたと思う。ランドーも、僕を褒めたりけなしたりしたに違いない。有名な評論家は皆、僕を褒めたりけなしたりしたが、実践しているのはごく一部だ。『Lennon Remembers』のインタビューや美術学校でも言ったように、僕は行動派であり、傍観者ではない。何も隠し立てするものもない。そういう曲を覚えているかい?

「Everybody’s Got Something to Hide Except Me and My Monkey」ですね。「Your inside is out, and your outside is in/Your outside is in, and your inside is out」という歌詞が気に入っています。

そう。でも評論家たちの評価はというと、「やや単純でイマジネーションに欠ける」というものだった。たぶん「君の内面は、タイムズスクエアにたむろする性病にかかったティーンエイジャーから流れ出す腐った汁のようだ。僕はそこでヘロインを打って顔を白塗りにし、赤い革のニッカーボッカーを履いてパフォーマンスしている道化師だ」とでも歌えば気に入られたんだろうね。

ー素晴らしい。アレン・ギンズバーグのようです。

その通り。誰でもギンズバーグになれるし、彼は好きだ。でも無駄な部分をできるだけ削ぎ落として、核心をつく歌詞を書くように心がけてきた。時には『I Am The Walrus』のような曲もあるけどね。木の枝葉を描くことに興味はないんだ。僕は木に登ったり木の下にいるのが好きなんだよ。

Translated by Smokva Tokyo

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