ジョン・レノン、ラスト・インタビュー|未公開版完全翻訳

ローリングストーン誌の表紙を飾ったジョン・レノン(Photo by Annie Leibovitz)


ーあなたの楽曲にはスラップバック・エコーが使われることがあります。

1950年代からテープ・エコーが使われているが、僕も「Rock and Roll Music」以降のほとんどの作品で、同様のエコーを使ってきた。気に入っているんだ。僕のヴォーカルにもほとんど同じ処理をしている。『Nashville Skyline』のボブ・ディランのように、自分のルーツへの回帰さ。僕のルーツはナッシュヴィルでなくリヴァプールにあるから、昔聴いていたエルヴィス、ロイ・オービソン、ジーン・ヴィンセント、ジェリー・リー・ルイスらの作品に戻るのさ。時々「Revolution 9」のようなこともするが、突飛なアイディアは完全にヨーコに牛耳られている。

僕らの最初のライヴは、1969年のケンブリッジ大学だった。当初彼女は、何人かのジャズ・ミュージシャンとコンサートを行う予定だった。僕がビートルズを抜けてから初めてのライヴだった。アンプにギターをつないでフィードバック音を出し始めると、僕に気づいた人々が「彼が何をやっているんだ?」と怒り出した。「引っ込んでろ」という感じだった。そしてヨーコが盛り上げようとすると「何だあれは?」とブーイングを受けた。だから僕が彼女と一緒に出る時は、バックバンドの一員に徹してできるだけ目立たないようにしていた。ティナ・ターナーに対するアイク・ターナーのようなものさ。ただヨーコの場合は、アヴァンギャルドなティナという感じでちょっと違っていたけれどね。とにかくジャズ・ミュージシャンたちは怒っていた。

僕にこうあって欲しいという理想像を、誰もが持っている。でもそれは、両親の期待や社会の期待に応えようとするのと似ている。さらには、小さな部屋に籠ってタバコを吸いビールを飲みながらペンやタイプライターを使って夢や悪夢を見ている、いわゆる評論家たちも、僕に対する勝手な人物像を描いている。とにかく彼らは、自分は他人とは違い独立した世界に生きる人間だと思っているんだ。

ー何年も前に、あなたとヨーコがウィーンで大きなバッグに入って記者会見を開いたのを覚えています。

そうだね。僕らはバッグの中で日本のフォークソングを歌った。「中にいるのは本当にジョン・レノンかい?」ああ、僕だよ。「でもどうしたらあなたがジョンだとわかるのでしょう?」僕がそう言っているから。「なぜこのバッグから出てこないのですか?」出たくないから。「ここがハプスブルク家の宮殿だと知っていますか?」ここはホテルだと思っていたよ。「そうです、今はホテルです」。素晴らしいチョコレートケーキを出すウィーンのホテルだ。知っているよ。ところで、誰が好き好んでバッグの中に閉じ込められていると思う? 死にたくないからバッグを破って出なければ。

(ここでスタジオ・エンジニアがヨーコの新曲「Walking on Thin Ice」を流す。)

これを聴いてくれ、ジョナサン。この曲はとてもいいから、彼女のソロシングルにしようと思っているんだ。B面は僕の曲でね。最近、ヒット曲のB面を作るのが好きなんだ。ギターを弾くのも好きで、この曲でもバックでギターを弾いている。僕はいつでも喜んでそういった裏方になるし、ヨーコにはその価値がある。長い道のりだった。僕はそのことで争う気は全くない。

争いといえば、笑える話だが、ある時アンディ・ウォーホールがヨーコと僕にマディソン・スクエア・ガーデンで格闘して、それを撮影したいと言ってきたんだ。

ー冗談でしょう。あなた方に格闘しろと? 相撲のようなものですか?

そんな感じだね。ステージの上で「ラヴ&ピース」を表現させようとしたんだろうね。実現していたら素晴らしいものになったと思う。

ー公の場でのファイト以外で、あなたとヨーコの次の計画を教えてください。2人でツアーに出る予定などありませんか?

決まっていない。たぶんやるだろう。楽しみだ。僕ら2人には新しい曲がある。プラスティック・オノの「Don’t Worry, Kyoko」、「Open Your Box」や「Why」などかつての作品をやるとすれば、彼女のヴォーカルと僕のギター、そしてベースとドラムというシンプルな構成になる。僕らも今風のバンドのようにやろうと思えばできるだろう。でも僕らには、スモークもリップスティックもフラッシュライトもない。とても気楽に楽しくできるだろう。笑いも取れるだろう。僕らは生まれ変わったロッカーさ。一から再出発しよう(starting over)としているんだ。

ー『キャプテン&テニール』のように、テレビの深夜番組もできるのではないでしょうか。

もちろん、ジョン&ヨーコでいつかできるだろう。よく2人で話し合っているよ。楽しいだろうね。でも時間はある。時間はたっぷりある。今はレコード・プラントにいて、ジョナサン・コットにまたローリングストーン誌のインタビューを受けている。表紙を飾るのが楽しみだ。あの1968年のように1981年を迎えられると思うと、ワクワクするよ。

ー「気をつけろ/お前のしたことには意味がある/いつかわからないが/お前はまたやろうとしている」(訳註:ボブ・ディランの楽曲「Subterranean Homesick Blues」の歌詞)

その通り。レノンかローリングストーン誌のどちらが先かだな。誰が長生きするかな。ライフ誌、タイム誌、ニューズウィーク誌、プレイボーイ誌、ルック誌…現実から目を逸らさないようにしよう。雑誌の浮き沈みは激しい。レコード会社の幹部も出入りが激しい。レコード会社や映画プロデューサーも、アーティストも同じだ。何たる人生!

『Double Fantasy』の前に出したのが『Rock ‘N’ Roll』で、アルバムカバーには革のジャケットを着てハンブルクで撮影した僕の写真が使われた。レコーディングの終盤にフィル・スペクターが僕に「Just Because」を歌わせたが、実はあまりよく知らない曲だった。そのほかの曲はティーンエイジャーの頃から慣れ親しんだ楽曲だったが、この曲だけはコツがつかめなかった。最後はすぐ隣でミキシング作業をしていたが、それも終わりに近づいた時、「これでレコード・プラントともおさらばだ」と叫んだ。しかし内心は「本当に別れを告げてもいいのだろうか?」とも思っていた。当時はそんなことを考えたこともなかった。ヨーコとは別居中だったし、子どももまだいない頃だった。しかしどこからか「全てにサヨナラしてもいいのか?」という声が聴こえていた。

何となく虫の知らせのような感じだった。その後数年経ってから、本当に僕はレコーディングを止めたんだな、と実感した。アルバムのカバー写真が頭に浮かんだ。1961年にハンブルクで撮った、革のジャケットを着て壁にもたれかかった写真。「僕が『Be-Bop-A-Lula』でスタートした場所で終わるのだろうか?」と思った。初めてポールに出会った日、僕はステージで「Be-Bop-A-Lula」を歌った。いろいろなビートルズ本で写真が見られるが、僕はチェック柄のシャツを着てアコースティックギターを抱え、「Be-Bop-A-Lula」を歌っている。アルバム『Rock ‘N’ Roll』と同じだ。

ささいなことだが、意識したことはなかった。かなり後になってから、思い返すようになったんだ。まるで夢でも見るような感じで、虫の知らせのようでもあった。ただ、意識的なものでもなかった。先の計画も目的もなかったが、「ハンブルク時代の写真」と「Be-Bop-A-Lula」は、レコード・プラントへの別れを意味するのか、とも思うようになった。アルバム『Rock ‘N’ Roll』の最後の曲を終えた時から、本格的に別れを告げることを考え出したんだ。そして喜んでけりをつけた。それがちょうどアルバムの最後だった。

ある時イギリスで占い師が、僕はそのうち国外で暮らすだろうと予言したんだ。ずっと忘れていたが、僕がアメリカの入国管理局ともめている最中に思い出した。「僕はここで何をやっているんだ? なぜこんなことをしているんだろう?」と思った。僕はここに住むつもりはなかった。たまたまここにいるだけだ。荷造りもせず何もかもイギリスの家に残してきたではないか。僕らはただ短期滞在でここにいるんだと思ったが、結局戻ることはなかった。

裁判中は、アメリカにふさわしくないだとか共産主義者だとか言われた。「何のためにやっているんだろう」と思ったが、そこで「いつかあなたは海外に住むでしょう」というロンドンの占い師の予言を思い出した。僕が移住するのは税金対策だろうと言われたが、そうではない。僕には何のメリットもなかったし、イギリスを離れた時に全てを失ってしまった。だから僕にはイギリスを離れる理由などなかったのさ。南フランスやマルタやスペイン、ポルトガルの太陽を求めて本国を脱出したい、などと願う多くのイギリス人とは違うんだ。ジョージ(ハリスン)はいつも「みんなで太陽の下で暮らそう」と言っていた。

ー「Here Comes the Sun」ですね。

そう。彼は今もイギリスに住んでいるから、いつも太陽に飢えているんだ。そこで急に思い出したんだ。「何と、あの占い師の予言は当たっていた!」ってね。言われた時は「冗談だろ?」って思っていたけれど。

時々思うことがある。いや、本当に不思議なのは、僕らは皆夢を実現しているが、常に選択肢がある。でも、前もって決まっている宿命というものはどれほどあるのだろうか? いつも分岐点があって、どちらの道も等しく運命付けられているのだろうか? 或いは何百という選択肢から選べる可能性もある。しかし選択できるのはひとつだ。とても不思議だ、と時々感じる。

いいインタビューの締めだった。グッバイ、またね。


インタビューを行ったジョナサン・コットは、1968年、ローリングストーン誌によるジョン・レノンとの初インタビューも担当した。
本記事は、米本誌2010年12月23日号に掲載されたものです。

Translated by Smokva Tokyo

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