cero・髙城晶平×Suchmos・YONCE、2010年代を切り拓いた両雄の視点

「シティ・ポップ」というラベル
髙城からYONCEへ「ごめんなあ」

ー2010年代を振り返るという意味で、改めて「シティ・ポップ」という言葉にも触れておきたいんですけど、2010年代の中でも何段階かあったと思うんですね。一十三十一さんの『CITY DIVE』と『My Lost City』が出た2012年に最初の波が起きたとすると、『Obscure Ride』と『THE BAY』が出た2015年から大波に変わって、現在では国内はやや落ち着きつつ、海外での日本の音楽の盛り上がりを伝える意味でのキーワードになっていたり。

髙城:あくまで俺から見たアングルの話ですけど、2010年代のシティ・ポップの土壌を最初に作ったのは、Pan Pacific Playaだと思うんですよ。『My Lost City』を出す前に、ライターの磯部涼さんとかにパーティーへ連れてってもらうと、そこでオシャレな人たちが山下達郎さんをDJでかけたり、シティ・ポップ的な音楽にトークボックスと現代的なビートを乗せてみたりしていて。あそこがどこよりも早く、シティ・ポップというものをかっこよくて新しいものに再解釈してたと思う。



髙城:それにメディアも注目して、「シティ・ポップ」という言葉の土台ができて、「この名前を冠せる誰か」を探してた。で、一十三十一さんはそれこそDorianさんとかと一緒にやってて、70年代後半からのシティ・ポップ直系と言っていいんじゃないかと思うんですけど、僕らは違うんですよね。海外だと、日本のアニメとかAI的な意匠と、シティ・ポップの定規で測ったような完璧なタイム感が合致して受けてるんだと思うんですけど、僕らの音楽はそこに入れるには歪だし、はみ出てる部分がすごく多かった。でも単純に、「東京のバンドですよ」って触れ込みがあったから、混線を生んでしまって。その誤解によって、Suchmosにまで「シティ・ポップ」というラベルが付くようになっちゃったのは……ごめんなあ(笑)。最初の方は結構言われたでしょ?

YONCE:そうですね。逆に、俺らは後から知ったんですよ。シティ・ポップっていうものが前にあって、山下達郎さんとかの文脈があった上で、そこからのパス回しが俺らのところにも来た、というか。急にキラーパスが来て、とりあえずトラップしたみたいな(笑)。なので、そこは柔軟に、「呼びたい人は呼んでくれればいいし」という感じでした。もともとシティ・ポップが好きな人が聴いたら、「これは違うぞ」ってなるのは一目瞭然だし、「それはそれでいいや」って。文脈とか時系列とはあんまり関係なく、ただ「シティ・ポップ」っていうフレーズがキャッチーだったから、俺らにまでパスが来ちゃった、という感じだと思うんです。

髙城:不思議なことが起きてましたね……。

ーでも、音楽の歴史を振り返ると、誤解や勘違いから生まれてるものも結構多かったりしますよね。

YONCE:結局当事者に意図があるかは関係ないんですよね。

ーちなみに、「Pacific」の中で〈CityなんかよりTownだろ〉って歌ってたのは、どんな意図だったんですか?

YONCE:あれは当時まだOLD JOEをやってて、実家の茅ヶ崎から新宿とかに通ってて、何とか終電で帰ってきてたんですよ。財布はほぼすっからかん。でも食いたいから、やるっきゃねえって感じで。

ーCityに行くしかねえと。

YONCE:でも、そのちぐはぐさというか、やってることとやりたいことの食い違いにやきもきさせられて、それで単純に口を衝いて出た言葉でした。

髙城:意外とSuchmosも、俺が「牧歌的」って言ってる、ローカルに根差した感じの亜種だったのかもしれない。周りは「コンテストに出なきゃ」みたいな感じだったのかもしれないけど、YONCEくんは地元を大事にしてるし、むしろもともと俺らに近い存在だったのかなって、今日話をして思いました。

Edited by Yukako Yajima

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