クラフトワーク、1975年の秘蔵インタビュー「音楽には始まりも終わりもない」

左からフローリアン・シュナイダー、カール・バルトス、ヴォルフガング・フリューア、ラルフ・ヒュッター。ロッテルダムにて。(Photo by Gijsbert Hanekroot/Redferns)

2020年4月、73歳で亡くなったフローリアン・シュナイダー。その功績を振り返るため、米ローリングストーン誌1975年7月3日号に掲載されたクラフトワークのインタビューをお届けする。アメリカではこの年にリリースされた『アウトバーン』を携え、全米ツアーを回った彼ら。早すぎた音楽性はまだ理解されておらず、ロック扱いされているのも時代を感じるが、「機械」としてのコンセプトはすでに完成していたようだ。


クラフトワークは「人間という機械」

噴水がしぶきを上げる小洒落た内装のレストランArnie’sには、日曜日のブランチを求めて長い行列ができていた。だが、ドイツのエレクトロ・ロック・グループ、クラフトワークの創始者ラルフ・ヒュッターとフローリアン・シュナイダーにはそんな時間はなかった。2人はこれから地元のフリースタイルのラジオ局を訪問した後、午後5時のフライトでアトランタに飛ばねばならない。初めてのアメリカツアーの真っ最中なのだ。

パリっとした黒のスーツに膝丈のグレーのウーステッドのコートを着たシュナイダーは、給仕長のほうへ歩いていくと強いアクセントで話し始めた。彼は1枚のポストカードを取り出した。一分の隙もなく着飾った男4人が、つい今しがた荘厳な神の顕現に遭遇したかのように、恍惚とした表情で宙を見つめている。カードの左上の隅にはグループの名前が書いてあった。我々はすぐに席を案内された。

●映像で振り返るクラフトワークとフローリアン・シュナイダーの歩み

クラフトワーク。直訳すると「発電所」。つい最近、アルバム『アウトバーン』がこの国のアルバムチャートでトップ5入りしたばかり。同名のシングルもトップ20入りを果たしている。多くの人々が、エレクトロの先駆者であるマイク・オールドフィールドの『チューブラー・ベルズ』と並んで、『アウトバーン』から商業エレクトロ・ロック新時代の予兆を感じていた。Vertigo Recordsからリリースされた同アルバムは、結成から4年経つバンドにとって初の全米リリースとなる。すでに西ドイツでは3枚のアルバムを出していた。



「アウトバーン」はベルリン内外をつなぐドイツの高速道路の旅を描いた作品。音符やリズムよりも電子パルスや電波を重視するグループのこだわりが全面的に押し出されている。ビーチ・ボーイズの楽曲とはまるで違う。もっとも、曲の中の一節――「Wir fahr’n, fahr’n, fahr’n auf der Autobahn(僕らは走る、走る、走る、オートバーンを)」――は、アメリカの元祖カーグループの歌詞「彼女はお楽しみ中、ファン、ファン、ファン、パパにT-Bird(フォード・サンダーバードの愛称)を取り上げられるまで」に驚くほど瓜二つだが。実際、ヒュッターもシュナイダーもアメリカのバンドの影響は全く受けていないと言う。彼らのお気に入りはピンク・フロイドやイエス、タンジェリン・ドリームといったスペース・ロックに、ジョン・ケージやテリー・ライリーといったアヴァンギャルドなクラシック勢。とくに同郷ドイツの電子音楽のパイオニア、カールハインツ・シュトックハウゼンには「精神的な」つながりを感じているという。

「僕らは自分たちをロックンロールのスターだとは思っていない」60年代は学生運動にあけくれたヒュッターは、エッグ・フロレンティンをもぐもぐさせながら語った。「そうそう。僕らはただの一市民だよ」とシュナイダーも言う。「夜、機材をセッティングして、つまみをひねって演奏しているだけさ」

「クラフトワークはバンドじゃない」と、シュナイダーは続けた。「クラフトワークはコンセプトなんだ。僕らはディ・メンシュマシン、つまり“人間という機械”なんだよ。バンドじゃない。僕は僕、ラルフはラルフ。クラフトワークは僕らのアイデアを伝える手段なんだ」

Translated by Akiko Kato

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