リトル・リチャードはなぜ偉大なのか? レノン、ディラン、ボウイも愛した反逆児の功績

ポールもディランもボウイも、みんな大好きだった

1932年、本名リチャード・ペニマンは12人兄弟の1人として生まれた。父親は密造ウィスキーを販売していたが、ゲイだという理由で13歳のリチャードを勘当した。リチャードは大道芸一座と巡業しながら、曲作りを始めた。正統派のジャンプブルース寄りの曲を書いたが、鳴かず飛ばずで終わった――22歳になるころには彼も巡業から足を洗い、地元のバス発着所で働いていた。そこで最初のヒット曲が生まれた。「グレイハウンドのバス発着所で皿洗いをしていたんだ」と、リトル・リチャードはローリングストーン誌に語った。「ボスに言い返せなくてさ。奴は鍋をわんさと持ってきて、俺に洗わせるんだ。ある日、こうつぶやいた。『何とかして、あの野郎に鍋を持ってこさせないようにしないと』 で、その後口から飛び出してきたのが『A-wop bop-a-loo-bop, a-lop bam boom、やってられるか!』 まさにあの時の俺の心境だった。つまり『トゥッティ・フルッティ』は厨房で作られたってわけさ」

世界中の誰もがリトル・リチャードの叫び声を聞き、これだ、と言った。物憂げなロンドンの街では、デヴィッド・ジョーンズという名の少年が「神のお告げだ」と悟った。それがきっかけで、彼はデヴィッド・ボウイとなった(彼が子供時代に持っていたリトル・リチャードの写真は、巡回回顧展『デヴィッド・ボウイ・イズ』でも展示された)。「リトル・リチャードはとにかく現実離れしていた」と、ローリングストーン誌にも語っている。「この世のものとは思えない。そうだろ、あんなの誰も今まで観たことない」

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リバプールでは、若きビートルズがあの声を研究しながら青春時代を送っていた。「荒々しい、しゃがれた声で叫ぶんだ」と、ポール・マッカートニーも伝記『メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』の中で当時を振り返る。「幽体離脱体験みたいなものだよ。今この瞬間の感覚をすべて脱ぎ捨てて、頭上1フィート辺りまで飛び出して歌わないと、ああは歌えない。自分の殻の外に飛び出さないと」ボブ・ディランは高校の卒業文集に、将来の夢は「リトル・リチャードとの共演」と書いた。



ビートルズの「アイム・ダウン」に始まって、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの「トラヴェリン・バンド」、プリンスの「ベイビー・アイム・ア・スター」まで、数えきれないほど多くのアーティストが自分流の「A-wop bop-a-loo-bop, a-lop bam boom」を生み出そうとしてきた。1966年、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで行われたビートルズ最後のコンサートのトリを飾ったのは「のっぽのサリー」。遡ること10年前、ジョンの気を惹こうとしたポールが最初に演奏した曲だ。『ホワイト・アルバム』のレコーディング中、4人はある晩ひと息入れようとポールの家へと向かった。ちょうどTVでは、当時にしては珍しく、リトル・リチャードがカメオ出演していた1956年のミュージカル映画『女はそれを我慢できない』が放映されていた。その時生まれた曲が「バースデイ」だ。






レッド・ツェッペリンは代表作となる4枚目のアルバムのレコーディング中、「フォア・スティックス」のリハーサルに行き詰っていた。気晴らしにボンゾがリトル・リチャードの「キープ・ア・ノンッキン」のイントロを演奏した。ペイジがそれに続いた。そしてたった4テイクで、トリビュート曲「ロックン・ロール」を完成させた。リチャード・トンプソンのように、比較的地味なケルトバンドさえもオマージュを捧げている――1988年のソロアコースティック・コンサートで、鳥肌ものの「Heebie Jeebies」を演奏してくれたのを、筆者も目撃した。

Translated by Akiko Kato

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