リトル・リチャードはなぜ偉大なのか? レノン、ディラン、ボウイも愛した反逆児の功績

ジェンダーの壁を壊す反逆児

多くの偉大なるロックのパイオニア同様、彼もまたジェンダーの壁を壊す反逆児だった。もっとも、彼は誰よりも突出していたが。彼が歌のお手本にしていたのは主に女性たちだった。「ウー・オォオォー、という俺のシャウトはマリオン・ウィリアムズという女性を真似たんだ」と、1990年のローリングストーン誌とのインタビューで語っている。「それからルシール・アァーってやつ――あれはルース・ブラウンからいただいた。『ママァー、彼ったらあなたの娘にひどい仕打ちをするのよ』って彼女の歌い方が好きでね。全部取り入れた」 彼が小銭稼ぎで最初に聴衆の前で歌った曲は、シスター・ロゼッタ・サープの曲「Strange Things Happening Every Day」だった。彼は自らStrange Things、つまり摩訶不思議な存在になることに生涯を捧げた。



「トゥッティ・フルッティ」が産声を上げたのは、ニューオリンズの有名なJ&Mスタジオ。パンブス・ブラックウェルがプロデューサーを手がけ、クレセントシティの有名スターが勢ぞろいした。ドラムにアール・パーマー、ベースはフランク・フィールズ、サックスはリー・アレン。リトル・リチャードは一夜にしてスターになった。『女はそれを我慢できない』にカメオ出演した同じ年、彼は映画『Don’t Knock the Rock』にも出演し、存在感をアピールした(裏街道のドラァグクイーンに捧げた頌歌「のっぽのサリー」を熱唱)。一躍スターになっても、彼の破天荒な性格は変わらなかった。80年代にはかの有名な台詞を残している。「俺がデカマラより好きなものがあるとすれば、さらに特大級のデカマラだ」また長年にわたってドラッグを愛用し、ローリングストーン誌にもこう語った。「俺の鼻の穴はディーゼルトラックが通れるほどでかいんだ」

名声が頂点を迎えたとき、彼は突然宗教に目覚め、アラバマ州の聖書神学校に通い、祖父と同じように聖職者の道を歩んだ。彼は福音と肉体の果て亡き戦いのシンボルとなった。1958年以降、彼はトップ10入りを果たすことはなかった。だがもちろん再び音楽界ににカムバックし、60年代にはジミー・ジェームズという若きギターの名手とツアーを回った。のちに独り立ちし、ジミ・ヘンドリックスとして有名になった青年は、師匠からショウマンシップの何たるかを存分に教わったことを証明した。だが、リトル・リチャードのバンドにいる限り、ボスより目立つことはご法度だった。「ある晩黄色い歓声が聞こえてきたと思ったら、奴に向けられたものだった。てっきり俺に向けられたんだと思ってたよ。だけど、奴が歯でギターを弾いたのはそれっきりだった。二度とやらなかったよ。奴が二度と注目を浴びないようくぎを刺したからな。問題解決! あれはイカンってことをハッキリさせたのさ」


Translated by Akiko Kato

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